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⑵
姉の咲が亡くなってからひと月の間、母が喋る声をほとんど聞いたことがないな、と拓斗は思った。
それでも、父と自分の食事など生活全般のことはきちんとしてくれている。
ただ、いつも沈痛な表情を浮かべている母に、なんと言葉をかけたらいいかわからなかった。
重く沈んだ葛西家で、唯一の救いはキナコだった。
キナコはチンチラゴールデンの2歳になる女の子。
咲によく懐いていたキナコは毎晩、咲のベッドで体を丸くして眠っていた。今も、主を失ったベッドで変わらず丸くなって寝ているようだ。
拓斗は、玄関の前で彼を見上げるキナコの頭を撫でて「行ってきます」と言ってみた。もちろんキナコは「行ってらっしゃい」なんて言ってくれないのだが。
⑶
「咲貴子、拓斗に『行ってらっしゃい』くらいは言ってやれ」
一也は、娘の咲が亡くなってから廃人のような妻に、今日もやや厳しめの言葉を吐いてしまう。
咲貴子はテーブルに突っ伏したまま返事しない。
一也が小さなため息をつき、玄関に向かうと、キナコが首をかしげるようにして、一也を見上げている。
「キナ、行ってくる。今日は保険屋が来るから早めに帰って来るよ」
妻にも聞こえるように言った。
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