融ける

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土曜日の午後二時過ぎ、夕飯の下拵えをしていた十和子は、BGM代わりに点けていたニュース番組から聞こえてきた名前に、身を固くした。 一刹那の後に、緩慢な動きで包丁を置き、瞬きをする。 そうして、もう一度テレビ画面を見つめる。 喉の奥が自然に、こくりと鳴った。 キャスターの女性が片眉をひそめながら再び、その名前を口にする。 二度、三度、四度、と耳にするうちに、十和子は事態を把握するのではなく、事実から意識を遠ざけよう遠ざけようと、頭をフル回転させていた。 それでも、視覚が脳に届ける情報は 『知り合いの逮捕』 にほかならず。 あまりにも唐突な出来事は、十和子を大いに混乱させた。 仕舞いには『きっと本当の自分は寝ていて、その間に知らない世界に放り込まれたのだ。そうに違いない』などと結論づけるほどに。 しかし、そんな願いにも似た十和子の思いとは裏腹に、全身はいつの間にか小刻みに震え、瞳からは涙がこぼれそうになっていた。 ――そんな。そんなはずは無い。だって、あの人は――。 十和子は己にそう言い聞かせると、動揺に乱れ狂う呼吸を整えようと、ぎゅうっと胸のあたりを掴む。 そのまま固く固く目を瞑り、昨日の保育園での送迎を思い起こした。 * * * 「おはよーん。今日寒すぎだよね。あ、リクくんの服、カワイーねぇ」 「おはよう。ほんと? 女の子っぽくない? でもリク気に入っちゃってさぁ。これしか着ないって朝から大暴れで」 「わかるわかる。うちの圭吾もそうそうそう!」 十和子は息子である陸斗の送迎時間が変わって良かったと、心から思っていた。 元々、職場の部署異動で時間変更せざるを得なくなったのだが、その時間帯には、思わぬ副産物があったからだ。 それが、奥寺かおるだった。 センスが良くて、何よりさばさばしているかおるは、入園した時からひそかに十和子が憧れていた人物だった。 一方の十和子は、終始オドオドしていて、入園して三年が経つのに【ママ友】どころか気軽に話せる人物もいない。 送迎時間の変更により、偶然にも十和子は、ひそかに一番の憧れだったかおると、毎朝毎夕顔を合わせるようになった。 それからというもの、かおるはごく自然に十和子に話しかけてきてくれる。 以来、憧れは更に強くなり、十和子の中でかおるは【一番仲良しのママ】に位置づけられていた。 「でもさ、めっっっちゃカワイーじゃんいいんじゃん。女の子っぽくても、リクくんがそれすきなら。ねぇ?」 かおるは、流れるような動作で膝を折った。陸斗と目線を合わせるためだ。 「もうほんとにちっとも言うこと聞かないんだよね。イヤイヤ期長いよ、この子・・・・・・」 十和子の愚痴っぽい言いざまを気に止める様子もなく、かおるは陸斗と陸斗の服に描かれた王冠をかぶったピンク色のうさぎのイラストとを交互に見やった。 そうして、とけかけのアイスクリームみたいな笑い方をする。 十和子は、かおるのこの笑い方がたまらなく好きだった。 陸斗が一人目の十和子と違い、かおるには圭吾の上に三人の子どもがいた。一番上の優太はなんともう中学生らしく、次の瑛太が小学四年生、小学一年生が汐里、そして四歳二ヶ月の圭吾らしい。 十和子はその話を聞いた時、違和感を覚えた。 そしてそれはいつの間にか「いまでもとても仲の良い夫婦なのだ」という理解にすり替わっていた。 十和子にとって奥寺かおるは、完璧で優しくてよく気がついて、いつ会ってもとけかけのアイスクリームみたいにやわらかな笑顔で話しかけてきてくれる――そんな存在、だった。 * * * 「――亡くなった奥寺汐里さんの全身には、至る所に火傷の痕や殴られた痕などがあり、母親の奥寺かおる容疑者の元夫で現内縁の夫である、村越圭介容疑者による汐里さんへの虐待が常態化していたと見られます。 また、奥寺かおる容疑者も虐待に加担していたと見られており、警察では事件の究明を急いでいます。 奥寺さん一家にはほかに、長男の優太くん十三歳、次男の瑛太くん十歳、三男の圭吾くん四歳がおり、残る三人も常態的な虐待を受けていなかったかどうかも事情聴取する方針です――」 淡々とテレビから流れてくる情報は、十和子の心を真ん中からじゅくじゅくと蝕んでいき、急速な勢いで融かした。 つまるところ、十和子にとってのかおるは【なりたい存在】そのものだったのだ。 かおると話す度、思っていた。 ああ、きっとかおるならば、圭吾が暴れても平手でぶったりしないのだろうな、と。 きっとかおるなら、圭吾が泣き続けても押し入れに閉じ込めたままにしないのだろうな、と。 きっとかおるなら、圭吾のわがままに我を忘れて、布団叩きでおしりが真っ赤になるまで打ったりしないのだろうな、と。そしてそれを園側に指摘されて「おむつかぶれです」と、平然と嘘をつきやしないのだろうな、と。 でも、その端で思っていたこともある。 なんで三男の圭吾だけ、上二人の男の子と名前の系統が違うのだろう。 優太、瑛太――。 内縁の夫。元夫。 奥寺汐里。 村越圭介。三男圭吾。 生活保護の不正受給。 多額の借金。 淡々と流れてくるニュースキャスターの声が、断片的に頭の中で跳ねる。 十和子が抱いていた違和感の理由を、否が応でも教えていた。 きっとかおるならきっとかおるならきっとかおるならきっとかおるならきっとかおるならきっとかおるならきっとかおるならきっとかおるならkaoruなカオルナラナルナ――違う! あの人は、違う!!! ぐるぐると回る言葉が突然、ぶつりと千切れ、天啓を得たかのように十和子はハッとした。 そうだ。ちがう。これはかおるなんかじゃない。 これはかおるのことなんかじゃない。 わたしだ。わたしなのだ。 わたしの中にいるバケモノのようなものをズルリと引きずり出して、泥団子よろしく丸め、べチャリと薄っぺらい画面の上に投げつけたものなのだ。 そうだ。そうに違いない――! そう考えた十和子は、なんだか頭がスッキリした気がして、口許を緩めた。 もしも鏡があれば、十和子は気づけたことだろう。 憧れ続けていた笑い方は、内側から溢れ出したドロドロが、こぼれ落ちていた表情だったことに――。 己の表情を確かめる術も持たず、十和子は歌うような足取りで、歩みを進めた。 ペタン。ペタ。ズルリ。どろリ。 陸斗が眠る寝室へ――。 【了】
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