0人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
研究室での日々を過ごす内に、私の頭の中は常に――『どうすれば死ねるのだろうか』という思考が巡るようになった。何しろ異形の姿であるが故に、死に方にはいささか工夫が必用だったのだ。
簡単に死ねれば本望だが、どうもマッドな科学者たちが言うには、私は不死に近い存在に変わったそうだ。不老だとは言われなかったことから、このまま寿命が尽きるまで静かに沈黙を守るという手もあるが、そこまで生産性のない時を過ごす気はない。
私が異形の姿へ変貌を遂げた日。その日は光も吸い込むような黒い雲が空を覆っていたのを覚えている。
目が覚めたのだ。それも6つの瞳が同時に見開かれた。視界は広く、背後や真上までも見えている。正面に二つ、耳があった部分に一つずつ、頭のてっぺんと後頭部にも一つずつ目がついている。
腕を眺める。黒い漆を重ね塗ったような光沢のある力強い腕だった。どうにも鱗が付いている。
次に腹を眺めようと首筋に力を込めてみた。すると視界はどんどん上へ登っていく。そこでどうにも首が異様なまでに長ったらしい事に気が付いた。
身体を起こそうと蠢いてみると、ズリズリと鱗がこすれて痛みを得た。なんとか普段寝ているベッドから這出て、姿見の前に身体を放り出した。
鏡に映っていたのは、全身を鎧のような真っ黒い鱗に覆われた、首の長いバケモノの姿が映っていた。
言葉は出せないが、思考は通常。記憶も残っている。
私の名前はキョウスケ・タカダ。25歳男性。ここはバンクーバーのホテルの一室。パスポートも荷物ある。ここには一人で旅行に来た。
昨日は早朝からグレイエハウンドのバスでウィスラーに行った。冬季五輪の会場にもなった世界最高峰の地でスノーボードをしていたのだ。
北米の異国の地でバケモノになった私にできた事は、カナディアン警察に大人しく捕まる以外の他には何もなかった。
部屋に入ってきた警察は目を丸くし、狂ったおもちゃのように銃のトリガーを何度も引いていた。6発のうち命中した銃弾は2発だった。痛みはあったが、すぐに傷は再生していた。
下手に暴れても仕方ない。応援に駆け付けた警官たちに拘束され、そのまま研究室に運ばれた。
もっと英語を勉強しておけばよかった。現状が全くわからない。私はどうなったのだろうか。
ひょっとすると、海外旅行中の日本人キョウスケ・タカダは、ホテルの室内で謎の怪物に捕食されたとでもニュースになっているかもしれない。
どれほど時間が経っただろうか。半年、いや一年は過ぎただろうか?
怪物の見た目の私には、無論人権なんてものは存在しなかった。実験動物の扱いだといって全く過言はない。
私の身体が再生能力に優れている事に気づくと、マッドな科学者たちは容赦なく私の身体を切り刻んだ。
来る日も来る日も私の身体が切り刻まれたのは、まずは確実に殺す術を見つけるのが最重要だったからだろう。彼らはどうしても殺すことができない私への恐怖があったのだ。
いい加減に頭にきた私は、拘束具を引きちぎって研究員を二・三人殺して
みた。人を殺してみても、存外私の心は平穏であった。どうも私は心まで怪物に侵食されたらしい。
翌日から、研究員たちはさらに本気で私を殺そうと試みた。しかし、水に沈めても、火で炙っても、切り刻んでも、ハチの巣にしても、毒を盛られても、何も食わなくとも私は一向に死ぬことはなかった。
久々に外に出たいと思った。白い部屋に閉じ込められるのも飽きた。日本の家族に会いたいと思った。
父と母も善良な一般市民だった。きっと長男の失踪を不安に思っているだろう。
それに歳が離れた妹も心配しているだろう。口数は少ないが、頭のまわる利口な妹であった。私は妹を愛していたし、妹も私の事を愛してくれていた。
しかし、この姿で会っても怖がらせるだけかもしれない。私の脳裏に浮かんだのは、カフカの『変身』の結末――父に腐ったリンゴを投げつけられ、妹にも最後は見捨てられ死んでいく。
毒虫よりも幾分は高スペックな私だ。しかし、見た目のグロテスクさは概ねいい勝負だと思う。
どうするか三日考えて、ようやくここから出る決心がついた。私にとってこれは、出る・出ないという問題であり、出られる・出られないという問題ではなかった。
何人殺してしまったかわからないが、一先ず私は外に出た。
乾燥した空気、英語表記の看板、周囲はだだっぴろい背の低い草原だった。ここはどこだろうか。北米だけど、カナダらしくはない。アメリカの西岸の乾燥気候に似ている。
どうせなら翼も生えればよかったのだが、私はそこまで都合よく変形できる怪物ではないようだ。
海を泳いで渡ろうかと思ったが、さすがに太平洋横断は何時間かかるかわからない。
ならば飛行機……?
パスポートはどうしようかと一瞬考えたが、最早そんな次元の話ではないだろう。残っている人間らしい思考に思わず笑みが漏れた。言語にならない、「ぐしゅぐしゅ」という変な音が出た。
結局、港の海底に忍びながら、日本行きの船を探した。頭頂部の目で一週間ほどじっと観察し、日本行きの船をようやく識別して船底にへばり付いた。
さて、どれほどの時間が経っただろうか。船がようやく停泊し、私は沖合から陸地を眺めた。幸い見知った場所であった。真っ赤なタワーに、白い骨組みの建物が見える。遠足で行ったことのあるポートタワーに海洋博物館。
ここは神戸港だ――私が生まれ育った町だ。
涙が出そうな感傷的な気分になった。だが六つあるどの瞳からも、涙は出せなかった。
私は海岸沿いを泳いで進み、深夜のうちに実家がある須磨区の住宅街へと向かった。
懐かしい我が家だ。父がかなり無理して買った新築の一戸建てである。
間違いなくこのままの姿で顔を出しても、阿鼻叫喚の嵐が吹き、今度は日本警察に身柄を拘束されるだけである。
私は実家の庭に忍び込み、地面に長いヒレのような腕で文字を書いた。
『私はキョウスケ。家のカレーはブタ肉。年末はぼたん鍋をし、紅白をみる。ガキつかは録画して三が日に家族そろって見るのが恒例。』
もっと家族だけが知り得る情報を書きたかったが、小さな庭に私の大きなヒレではここらが限界であった。しかしこれに賭けるしかない。私が毒虫になってしまったグレゴールと大きく違う点、それはコミュニケーションが取れる事だ。
しばらく窓から中の様子を眺め、意を決して窓をノックする。そして倉庫の裏に急いで身を隠した。いきなりこの姿を現しては、さすがに驚かせてしまうだろう。
やや時間が経過し、ようやくガラガラっと窓が開かれた。父が警戒した様子で、外を覗きこむように顔を出す。
「なんだっ……これは!?」
父の驚く声が聞こえた。とても懐かしい声だ。父の声に、母と妹も庭に姿を現した。
「恭介? これって……恭介が書いたの!?」
「お兄ちゃん、近くにいるの!?」
母と妹の声に、私は居ても立っても居られなくなった。出来る限り恐がらせないように、ゆっくりと姿を現す。
「っひぃ……!」
父の目を見開いてはっと息を飲む音、母の恐れおののく声。
そして妹は一言、「お兄ちゃん?」と小さく呟いた。
その問いに、私は長い首を縦に一度大きく振って頷いた。
その瞬間、父の静止を振り切り、妹は私の元に駆け寄ってきた。一瞬ためらいを見せたが、そっと私のヒレのような腕をとった。
「おかえり、お兄ちゃん。」
「ただいま」と言いたかったのだが、私の奇妙なイソギンチャクのような口からは、粘着質な変な音が出ただけだった。
それから私は二階の自室に匿われることになった。食欲はないし、別に食べなくても死なないが、出されたものは残さないで食べるのが父の教えだ。
妹が私が家族と円滑なコミュニケーションを取れるよう、アイパッドを置いてくれた。電子の動きに反応するタッチパネルなら、私のヒレのような腕でもラインで家族とやりとりができた。
概ねのこの二年間の出来事を私は文字にして綴った。私が死ねない事も、脱走する際に決して少なくはない人を殺めてしまった事も正直に告げた。
リビングのカレンダーの日付を見ると、2021という数字が書かれてあった。
私がバンクーバーに旅行に出かけたのは2019年の2月である。脱走するまでの二年間、私はただの行方不明とされていたそうだ。未確認生命体の目撃情報もあったそうだが、眉唾ものの噂とされていたらしい。
私が脱走したことで、研究機関はこの家にまでやってくる可能性がある。この平和な日常も長くは続かないだろう。
私はどうすればいいのだろうか。
見た目が異形な姿に変わろうとも、中身が同じであることが伝われば、家族は私の存在を私そのものだと信じてくれた。
家に戻って数日後、父は私の身に起きた事を全て公開するべきではないかと言った。それは私の事を思ってのことだったが、まだもう少しだけ待ってほしいと返した。
母はまだ私の姿を直視はできないものの、それでもメッセージアプリを通していつも私の身体を気遣う言葉をかけてくれた。
妹はでき得る限りの時間を、私の部屋で一緒に過ごしてくれた。自分自身ですら気分を害する私の見た目だが、それでも妹は傍にいて話しかけてくれた。
「お兄ちゃん、鱗がざらざらだね。でも、私は爬虫類わりと好きだよ。」
「それは知らなかった。」とアイパッドに打ち込む。アイパッドを使った会話にも慣れてきた。
「お兄ちゃんがいない間に、私も大学生になったんだよ。成人式も終わっちゃったよ。」
「写真は?」
「直接見てほしかったけどね、ほら写真、綺麗でしょ?」
「うん、綺麗にしてもらってよかったな。」
「あっ、そういえばお兄ちゃんの付き合ってた彼女はどうしたの?」
「二年も失踪してたら、もう忘れられてるさ。それに、この姿じゃもうね。」
「そっか……。でも、どんな姿でもお兄ちゃんは私のお兄ちゃんだよ。」
「うれしいよ、ありがとう。」
突然の電子音、一階からインターホンの音が響いた。
「今日はお父さんとお母さん出かけてるから、私が出てくるね。」
郵便の配達であればいいのだが、どうもそうではなかったようだ。
「ちょっと、いきなり何なんですかっ!?」
ドタバタと一階で音がしている。
最悪の事態は常に想定しておく必要がある。もし私を捕獲にきた研究者の関係の者であれば、速やかに私はこの家を出る必要がある。
私がここにいた痕跡はどうしても残る。私と家族が関わりがある事はもう自明になる。父とも相談していた決断を今こそする時だ。
私は動画のアップロードボタンを押し、窓から飛び出した。
あとはどこまでも逃げる。なるべく多くの人の目に触れ、私がいかなる存在かをこの世界に知らしめるしかない。
私が再び研究者たちに捕まってから、おおよそ一年が経過した。
某大規模動画サイトにアップロードされたのは、私と妹が二人で会話している様子だ。
「お兄ちゃんが、私がおもらししたのを庇ってくれて、お母さんに代わりに怒られたの覚えてる?」
「私が小学校でクラスの男子にいじめられてた時、いっつもお兄ちゃんが休み時間に私の教室まで来てくれたよね。」
子供の頃の思い出から、最近の家族で過ごした思い出まで、異形な姿の私と可憐な美少女の妹のやりとりが続くだけの動画。
それはただ――私が確かにこの家族の一員である証拠の動画だ。
世間に私の姿が明らかになり、気持ち悪いから殺せという意見と、可哀そうだから守れという二つの意見で対立していたらしい。
私としては、私と家族をそっとしておいてくれという願いが一番だった。しかし、ただでそっとしておいてくれないのも仕方ないとは思う。
そのため、私は日本の研究機関に協力し、多少実験動物として切り刻まれる事を了承した。私の妙な身体の組織が、新薬開発やらに役立てばいいと願う。
またその代わりに、週二日は家族の元に返してくれる事、また実験協力費としてささやかながらの給料を要求した。
精神的にも、肉体的にも安定した生活を得られた日々が続くと思った。
しかし、私の家族は多くの人々から迫害され、「バケモノの家族だ。」「あいつらも、いつ異形の姿に変わるかもしれない。」「あの家族は病原菌を持っている」などと厳しい差別を受けた。
私は家族の保護を要求した。すぐに受け入れてもらえたが、あきらかに家族は精神的に消耗しつつあった。
最初に壊れたのは母だった。常に親切で優しいけれど、精神は打たれ強くない人だった。風呂場の浴槽でカミソリで腕の脈を切って自殺した。
母が死んでから、父はアルコールに依存していた。幻覚が見えていたり、私と妹に罵詈雑言を浴びせたりし始めた。
ある日――狂った父は、私の前で妹に酷い仕打ちをしようとした。
その前に私は父を殺した。妹は俯いたまま「ごめんね……」と小さく呟いた。それは死んだ父に対してか、私に対してかは最後までわからなかった。
「もうみんなで天国で幸せになろう。この世界は駄目だ。待ってるから。」
妹がそのメッセージを残して自殺したのは、私が父を殺した翌日だった。
人としての尊厳は何なのだろうか。人としての見た目が失われても、家族は私を家族だと認めてくれた。しかし、この社会は私を人としては認めてくれなかった。
妹の死後、私は全身全霊をもって暴れ狂った。手がつけられなくなった研究者は、私を溶かした金属の中に突っ込んで冷やし固めた。
それでも私の意識はあった。どうすれば死ねるだろうか――私の頭はもうその事だけを考えている。早く家族の元に行かなければならない。
何年たったかわからないが、老化は進んでいるらしい。不思議と天命がもうじき尽きるのがわかる。
――やっとだ。ようやく私は死ぬことができる。
私の精神はとうに死んでいた。しかし、死ねない肉体の中に閉じ込められ、長い苦痛の時を過ごした。
肉体の死をもって、私の精神はようやく解放されたのだ。
同情はするな。グレゴールとは違うのだ。異形の姿なった私に対しても、家族は決して愛を失わなかったのだ。優しい母と、真面目な父と、愛に満ちた妹だった。
彼らを壊した原因は別にある。
多様性を受け入れない思想こそ、悲劇を生んだのだ。
最初のコメントを投稿しよう!