霧雨とホットミルク

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霧雨とホットミルク

 n丘にある洋館のはなしだ。その洋館は、喫茶店なんだが、とっても不思議な店なんだ。  まず、営業時間は、真夜中に限る。午前零時から午前二時までのたったの二時間。そして、雨が降っていることが条件。小雨でも、大雨でも構わない。雨が降っている真夜中にしか、扉に掛けられている看板はopenにならない。ただし、このふたつを満たしていたからといって、店に入れるわけではない。その店を、都市伝説だといって、面白半分に訪れようとした人たちは、入店することはできなかった。看板がclosedの文字だったからではないんだ。その人たちは、洋館すら、見つけることができなかった。n丘には、なにもなかったそうだ。しかし、わしを含め、たどり着くことのできた人もいる。どうやら、その喫茶店は、客を選んでいるようなんだ。ふふ、不思議だろう?  わしが訪れた夜は、霧雨が降っていた。雨は街を包み、n丘に向かう足取りは、重かった。本当にn丘に喫茶店があるのだろうか…。行ったところで、現実は変わらないじゃないか…。でも、気休めにはなるかもしれない。半信半疑だった。傘に落ちる雨粒は、ひとりの闇夜には十分なほど響き渡って、一層、わしを物悲しくさせた。しばらく歩いていると、洋館が現れた。窓からやさしい明りが漏れている。これが噂のn丘の喫茶店?そう思いながら、洋館に近づくと、扉にはopenの文字。わしは思い切って、重々しい紺桔梗(こんききょう)色の扉を開けた。  扉を開けると、珈琲の匂いと馴染み深いクラシックに包まれた。あ、この曲はショパンの『雨だれ前奏曲』…。妻が良く弾いていた曲だ。  「いらっしゃいませ。どうぞ、こちらに」  不意にやわらかな声が響く。カウンターの向こうで、店主と思われる女性が珈琲カップを手に微笑んでいる。わしは、店主の声の通りに、カウンターの席に着いた。  「今宵は、霧雨ですね。ここまでたどり着くのは、さぞ大変でしたでしょう。なにかお飲みになりますか?」  「はい。ええっと、メニューは…」  「実は、この店にはメニューがないんです。私が、お客様お一人お一人に合ったものを提供させていただいています」  「ほう。それはなかなかおもしろい。では、わしに合うものをお願いできますか?」  「はい!もちろんでございます。少々お待ちください」  「お待たせいたしました。どうぞ、ごゆっくりお楽しみください」  しばらくして、店主がわしに差し出したのは、“ホットミルク”だった。甘い香りが鼻をくすぐる。店主に礼を言い、ひとくちホットミルクを飲む。  口のなかに、やさしく甘さが広がる。そして、どこか、懐かしい感じがした。ホットミルクの余韻に浸るわしに、店主は尋ねた。  「このホットミルク、どんな味がしますか?」  「とっても甘くて、なんだかほっとします」  「……実は、このホットミルク、砂糖は一切使用していないんです」  「砂糖のような甘さを感じたんだがねぇ。特別な牛乳を使っているとか…?」  「いいえ。普通の牛乳ですよ」  店主はいたずらっぽく笑って続けた。  「このホットミルクの甘さは、お客様の“やさしさ”なんです」  「わしの“やさしさ”?」  「そうです。お客様の“やさしさ”です。こんな短歌があるのですが、ご存知ですか?  “真夜中のホットミルクが甘いのは砂糖じゃなくてあなたのやさしさ”  ホットミルクは、安眠作用やストレスを軽減させる、と言われています。ほっとしたい、落ち着きたいときに、おすすめです。そんなホットミルクを飲む時間を大切な人と分かち合えたら…。ホットミルクが甘くやさしいのは、砂糖じゃなくて、そんな時間を共にしてくれる“あなた”の“やさしさ”のおかげ。そんな意味が込められた短歌だそうです」  聞き覚えのある短歌に、涙が頬を伝う。そんなわしに、店主はこう言った。  「あなたと一緒に飲んだホットミルク、あなたのやさしさでいっぱいだったわ。本当にありがとう。これからもずっと、愛してるわ」  「え?」  驚き、声が裏返ってしまった。そんなわしに、店主は微笑んで言った。  「奥さまからの言伝です。“BGMの『雨だれ前奏曲』”も、“短歌”も、“ホットミルク”も。奥さまから、お客様へのプレゼントです。この店にメニューがない理由を、先程、“私がお客様お一人お一人に合ったものを提供させていただいているのです”と説明いたしましたが、実はそうではないんです。  この店、亡くなられた方と今を生きる方とを繋ぐ役割を担っているんです。信じられないかもしれませんが、お亡くなりになった人からご依頼を受け、営業しております」  「妻から依頼があったのですか?」  「はい。お客様が、ひとりでさみしがっているようだから、ひとりじゃないって伝えてほしいと…」  ちょうど一か月前に妻を亡くし、ずっとふさぎ込んでいたわしは、子どものように、しゃくり上げながら泣いてしまった。そんなわしに店主は、微笑み、諭すように言った。  「今後、お亡くなりになった方との思い出が、新しくできることはないかもしれません。ですが、“BGMのショパン『雨だれ前奏曲』”や、生前に奥さまが作られた“短歌”、やさしさがいっぱいの“ホットミルク”であったり…。いろんなところで、想い出たちは息をひそめていることでしょう。それを、見つけ、想い出を振り返る日々…意外と楽しいのかもしれません」  あれ以来、n丘へ行っても、洋館を見つけることはできなかった。だけど、妻と暮らした家のなかで、たくさんの“想い出”を見つけることができたんだ。  
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