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照れるのを隠すようにして人差し指で鼻の下をぽりぽりとかいている。
「そうさ。あれがきっかけで僕たち親しくなったんだし」
懐かしいな、と遠い目で向こうを見つめる新に志道は
「そうじゃったなぁ。今でこそ言うが同じ学び舎にいた俺の存在に気づいてなかったじゃろう」
志道も遠い目をして、抑揚のない声音で呟いた。
新はあの日が初めての出会いと口にしていたが、実際はすでにふたりは出会っていた。
しかも、短いけれど挨拶程度の言葉は交わしている。
その時に志道は新に淡い恋心を抱いたと言っていいだろう。
そのことを新はすっぽりと抜け落ちていたようだ。
「あー・・・うん?」
大抵の反応は予想していただけにそれほど傷つきはしないが、後ろめたさの一切ない態度に些か腹が立つ。
がっくりと肩を落とした体勢でどうしようもない飽和した想いを酒気を帯びた吐息にのせて深く吐き出した。
『こんな男に惚れた俺が悪い、か』
諦めにも似た小さな息を吐き、自身の膝を叩いて目の前にいる想い人ににっかりと笑みを向ける。
「まあ、えぇ。そねぇな事今更言うてもどうにもならん。今がええならそれでなんも文句は無い」
「聞多」
「案ずるな。お前が俺の事を好いとる気持ちはちゃあんと伝わっとるけぇの」
酒に強い志道でも、流石に酔いが回って来たようで、派手に音を立てて自身の胸に掌を当てると瞼を閉じて何度も頷いている。
「なんでいきなりそんな話になるんだ?」
「そらぁ、あん時の新ときたら、初めて恋をした女子のような顔をしちょったからのう」
「そんな筈は無い。本人を前にして偽りを言うのは良くないぞ」
「偽りなもんか。ありゃあ確かに俺に惚れた顔じゃった」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「聞多は嘘つきだ」
「嘘じゃないと言うちょろう!」
「・・・・・」
黙り込んだ新に志道は少しばかり情けない音で声を掛けてくる。
「・・・・な、なぁ。怒ったんか?」
何時からだろうとふと新は思う時がある。
彼は何故こんなにも己に執着するのか、と。
彼もまた生家の井上から志道家に養子として入り、藩主の小姓も勤めた男なのだ。
元服をし藩士としての役目もこなしている。
酒宴や紹介などで女子と知り合う機会も多いだろう。
それなりに遊んでいるとも耳にしていた。
それに跡継ぎとして入った以上、その家の娘、あるいは養子先の家柄と見合う家系の者と婚姻をする。
今の時世であるならば、いつ己の身に不幸が降り掛かるか分からない。
早くに嫁を娶り、子を残す事も彼の立場から考えれば至極当然のように思えた。
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