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「ぷはーっ、旨い!」
井戸から汲み上げられたばかりの水の入った湯飲みをあっという間に空けてしまうとまだ口を付けられていない住職の湯飲みまで手を伸ばし一息に飲み干した。
「・・・・・晋作め。また親父さんと何ぞあったな」
その様子に住職は呆れ顔でぽつりと呟くが、その言葉は本人に聞こえなかったようだ。
暑さからも喉の渇きからもようやく解放され、晋作は家を飛び出した経緯を住職に話すとやはりそうかと笑われた。
「何であんたにも笑われにゃならん」
幼少の彼をよく知る住職にしてみれば、『しょうのない奴』だと思われても仕方のないことだと思う。
だが、先ほど顔を合わせたばかりの飯島という男に同様の態度を取られるのは我慢がならない。
「あぁ。ごめんごめん。だって君、お父上に小言を言われた位で家を飛び出してきたんだろう?君の年頃でそんな態度を取るような人、僕は見たことはないなぁと思ったものだから」
今まで同い年と思われる人間にこのような物言いをされた経験が無いに等しい晋作は目を疑った。年長の者たちからは同じ様な言葉を口にされても腹などたった覚えはないのに、この男に言われるのは流石に気分が悪い。
「あんたは何も知らんからそんな事が言えるんじゃ。うちの親父はな。毎日・・・いや顔を合わせる度に『揉め事起こすな』『学問に励め』『高杉の跡取りとして恥じぬ行動をせぇ』と、そらぁもう煩そうてかなわん。あの家は俺にとって息苦しいだけじゃ」
「贅沢な悩みだね」
ふいにそのような言葉が男の口から零れ、晋作は更に目を見開く。
そしてその動揺を悟られまいと晋作は男の湯飲みまで掴むとこれ見よがしに飲み干し、たんっと畳を打つように置くと挑むような眼差しで飯島という男を見据えた。
「何でじゃ、あんたもあんな家に生まれたらきっと息が詰まるに決まっちょる」
「でも結局、君はお父上の恩恵を受けている身の上だ」
「なんじゃと」
「小言が煩い。あれをやれ。これはしてはならんと言われるのが好かぬと君は言う。しかし実際、君はその様な程度の低い悩みを抱えるられる程にお父上のお陰でこれまで平穏無事に、自由奔放な暮らしていられるわけだ。僕から見れば君は体だけ成長してしまった子供のように思えるけどね」
「如何にも俺が苦労知らずみたいな風に言うのう」
「気に障ったのなら謝るよ。でも、君の言葉と態度から見受けられるのはただの我侭だ」
「貴様なんの権利があってそんな事が言える!生まれは何処じゃ、身分は何じゃ!」
怒りに任せて立ち上がり、晋作は男の胸倉を掴み上げると拳を振り上げた。
「晋作!此処は仏様が居られる場所じゃ。このような所で乱暴を働く事はわしが許さんぞ」
「じゃがぁ、こいつがっ・・・・」
「まぁ、取りあえずその手を離しなさい。そのままでは彼も話が出来んからのう」
住職が仲裁に入らなければ確実に殴りつけていたところだ。
名前しか正体の分からぬ男に馬鹿にされ、説教まがいな言葉も言われれば腹も立つ。
晋作は乱暴に男の襟から手を離すと男を睨み付けたまま、口を開いた。
「こいつは何者じゃ。何故こんな所におる」
「飯島殿。一緒に中に入ってきたと思うたらお互い何も知らんのか?」
「はい。何分彼がとても急いでいるように思えましたので、互いに名前しか名乗っておりません」
乱れた襟元を正しながら白々しい言葉を口にした。
出会いの際にあんな顛末があったと言うのに、よくも涼しい顔で言えたものだ。
晋作は自分が醜態を晒した側だというのに何故か面白くなく思い不貞腐れた態度でそっぽを向く。
「晋作。飯島殿は周防国束荷村の生まれでのう。彼は利助の親戚なんじゃよ」
「利助?」
「ほれ、あの伊藤利助じゃ。少し前から寅次郎の処へ通いだしたと久坂からも聞いちょろう」
「あぁ。あの小僧か」
「これ、晋作」
「それで今こいつがこの場にいるのと何の関係があるっちゅうんじゃ」
と、目の前の男から視線を外さぬままに顎でしゃくる。
飯島の様子というと、これまた言葉は出さないが目元を細くし、真っ向から睨み据える晋作の瞳と同じような眼差しで返していた。
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