【長州】皎の浮き舟

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宵の闇が辺りを覆う。 飯島新は萩より離れた湯田まで馬を走らせていた。 目的の店先で馬を降り表に出ていた下男に声を掛けて手綱を預けると、足早に店の中に入って待ち合わせの相手の名を告げる。 案内されたのは店の奥まった場所に位置する一室で、中に入らずとも到底客が使う部屋とは思えない所であろうと窺い知れた。 案内の男が襖の前で膝を折り、中にいる者に声を掛ける。 入れと言ったのか少し聞き取りづらい音を確認するとゆっくりとそこは開かれた。 足を踏み入れた途端に湿った空気と埃臭さに顔を顰める。 中はやはり装飾品なども一切なかった。 広さもおおよそ六畳あればいい方で、おそらくこの場所は店の物置のようなかたちで普段は使用されているのだろう。 室内には行灯が一つ備えてあり、その炎が揺らめいて天井に這うようにさざめく影を広げてゆく。 「よう来たな」 「あぁ」 ここで会う約束をしていた男は随分前から来ていたのか、薄暗いこの部屋にどうにも不釣合いと思われる美しい塗りが施された膳を前に腰を下ろしてひとり酒を呑んでいた。 「すまない聞多。かなり待たせてしまったようだ」 「・・・・・随分遅かったのう。待ち草臥れて先にやっちょった」 横顔しか表情は窺えないがこちらに顔も向けずに手にした杯を持ち上げるところを見るとかなり機嫌が悪い。 「すぐにお客様の膳もご用意致しますので」 重い空気を察したのか案内の男が取り付くように声を掛ける。 「用意せんでもええ。俺らはこれで十分じゃ」 「遅れた事は悪いと思っているけど、随分な扱いじゃないか聞多」 「やかましいわ」 聞多と呼ばれた男は新の背後にいる案内役の男に向かって掌を振ってみせ、襖が完全に閉まる間際に呼ぶまで部屋に人を近づけさせるなとも付け加えた。 その一連を眺めていた新は苦笑を漏らさずにはいられない。 「酔ってはいても相変わらずの細やかさで」 「酔ってなどおらんわ。・・・・・それに。念には念をじゃ」 あえて何の念だとは聞かなかった。それを問うほどこの男との付き合いは可愛らしいものでもない。 「まずはこれを呑め」 寄越される視線をそのまま受け止め、腰から大刀を抜いて差し向かうようにして座る。 出された杯を受け取ると、注がれている手元を他所に新は酌をする男に視線を移した。
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