とどめておけない

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 あの青年が、牧原英介という名であることを奈緒が知ったのは、桜がすっかり散った頃だった。偶然入ったカフェの店長が彼だったのだ。  英介はその街にオープンしたばかりのカフェの雇われ店長だった。それも、SNSに彼の紹介がのるやいなや、その容姿が話題となっていた。噂を聞きつけた友人の朱理に誘われて、奈緒はそこを訪れた。当然、彼が例の橋の上の人だとは知らずにだった。 「今日いるのかな?」  案内された席に着くなり、朱理は目を輝かせていた。 「いたとしても、いい男かは分かんないよ」 「えー、けどイケメンでしょう?」 「加工かもしれないじゃん」 「そうは見えないけどなー」 朱理はスマホの画面をうっとりと見つめていた。恐らく、例のイケメンの画像でも眺めてるのだろうと奈緒は呆れていた。 「イケメンといえば、こないだ変な人に会ったんだよね」 そう言うと、奈緒は手元の水をぐびっと飲み干した。それから、あの花見の日の話をした。 「それは無いわー」 「いや、本当に。間違いなく、最近のワースト1位男だわ!」 朱理が話の途中から、ヤバイヤバイとくり返しながら、目に涙を浮かべるほど笑ってくれたことに安心しながら、奈緒も笑った。 『なんでか僕は、物事の時間をとどめておく術を持たないらしい』   奈緒は、あまりの意味の分からなさから彼の声とともに、その言葉が頭から離れないでいた。  咳払いがした。いつのまにか、奈緒のグラスに水が注がれていた。 「ご注文はお決まりですか?」 「嘘……」 それが、英介だった。 「お久しぶり」 奈緒は微動だにせず、彼の顔を見つめた。 「口開いてるよ。……お客様?」 彼は首を傾げて、軽い口調だった。向かいの席では、朱理がうっとりとしている。彼女は猫なで声でカフェオレを注文した。咄嗟に、奈緒も同じものを頼んだ。 「かしこまりました」 彼は何ともなしに立ち去った。いやに優しげだから、なおさら怖い。 「で、久しぶりって、どういうこと!?」 朱理からの追及は、案の定面倒であった。    カフェオレは美味しかったし、ケーキも甘すぎず、奈緒の口に合ったのだが、もう来まいと決心しながらレジへ向かった。担当は英介だった。 「ワースト1位男でごめんね。みんな手が空いてなくて」 笑顔で言う彼に気まずさを感じながら、奈緒は財布を開こうとした。 「あっ。今日はサービスで。お友達さんもね」 英介が気楽に言った。奈緒が驚くと、朱理は大喜びを必死に隠していた。 「こないだ。写真撮れなかったお詫び。あの後、ちゃんと撮れた?」 「……はい」 「それなら良かった。かわりに、またのご来店をお願いします。開店してしばらくすると、お客さん引いちゃうから」 悪戯っぽく会計を終える彼に、たまらず奈緒は声を裏返しながら尋ねた。 「あの!お名前は!?」 英介は彼女を黙って見つめて、目を瞬かせた。その間に、奈緒は冷静になって顔を赤らめた。 「牧原英介。店のインスタに載せてなかった?」 「あ……」 奈緒の後ろで、朱理がホントだー、と呑気にこぼすのが聞こえた。 「じゃあ、またね」
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