グラウンド・ゼロ

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「ニューヨークに行きませんか?」 と、一度しか会ったことのないChieさんからメッセが来たのは春頃だった。 あまりにも唐突だったので、そしてそれは私が心の底であまりにも望んでいたことだったので、あまりにも行きた過ぎて数週間、無視してしまった。 私とChieさんはある本の大ファンで、私が主催したその本のファンの集まりで一度だけお会いしたことがあった。普段は米国在住のChieさんは、その時だけ一時帰国していて、遅れての参加だったので実際にお話ししたのは30分くらいだった。 そのChieさんからSNSのチャットで誘われたわけだ。 なぜニューヨークかと言うと、私とChieさんがファンの本(洋書)の作者がニューヨークでイベントをするからで、それに一緒に行きませんか、というのだ。お家に泊めてくれて、バスやニューヨークでの宿も手配してくれて、通訳もしてくれるという! 悪い人ではないというのはSNS上の投稿などから分かっていたし、怪しいお誘いではないと分かっていたが、だからこそ、あまりにありがたいお話で、受け取るのに時間がかかり結局お返事まで数ヶ月かかってしまった(小心者…)。 とにかく行くことにして、飛行機のチケットを Webで手配して、準備をしていると「ニューヨークで他に行きたい所ありますか?」とメッセが来た。 「グラウンド・ゼロに行きたいです」 思わずそう返した。 * 2001年9月11日。 私は美大を卒業してすぐ就職した専門学校で絵の講師をしていた。 やりたい分野で、生徒たちは可愛く、それなりに充実した日々を過ごしていた。 その日、昼休みに職員室にいると私のPHSに電話がかかってきた。 数日前に小さな手術をしてもらった皮膚科の先生からだった。 「飯島さんですか。がんだったので、明日すぐ来てください。」 聞いた瞬間に、比喩でなく全身が心臓になったようにドクドクと脈打ち出したのを覚えている。 数日前に取った腫瘍は良性のはずだった。「念のため組織検査に出しておきますね」と言われた、あの白くてふよふよとビーカーの中に浮かんでいた腫瘍が、がんだったのか。 同僚の先生たちに「がんだったみたいです」とだけ言って、私はフラフラと校舎の屋上に登った。午後の授業の前に気持ちを落ち着かせるために。今思えば早引けすればよかったんだけど、当時はくそまじめだったのだ。 曇った空、外階段のコンクリート、錆びた手すり。断片的に覚えている。 午後の授業中に笑いを作った顔の頬が引きつったことも。 そして、よく覚えていないけれどとにかく仕事を終えて、帰りに職場の近くのインターネットカフェに寄った。まだスマホやPCが普及していない時代、調べ物はいつもそこで30分無料の時間内にしていた。 窓際のカウンター席で「皮膚がん」「余命」とかで検索したと思う。 当時はまだあまり画像もUPされていなかったけれど、それでも数分調べただけで黒くただれた患部の写真や、皮膚がんの予後は悪く生存率は数年、という情報が出てきた。 気分が悪くなって、30分もいられずに店を出た。 当時は都内で一人暮らしをしていたが、親にも知らせねばと思い、また手術をしてもらった皮膚科が実家の近くだったこともあり、その日は郊外の実家に帰ることにした。 電車で小一時間、実家に帰り着いた頃にはすっかり夜だった。リビングのドアを開けるとすぐ正面のTVが目に入り、大きなビルにジャンボ機が突っ込む映像が流れていた。 すぐにそれは実際のニュース映像で、ただ事ではないという雰囲気が伝わってきた。実況やブレた画面の映り方が、今まで見たこともない緊迫感だった。 「アメリカだよ」 ダイニングテーブルに座っていた父が言った。 「私…やばいよ。がんだって。」 両親の反応は覚えていない。 やけに力強く父が「大丈夫だから。」と言い切ったのだけ記憶している。                                             後編に続く
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