第12章 君が考えるほど、音楽は君を簡単には手放さない。

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何を言い出すつもりなんだろ。わたしと、隣に座る堂前くんが同時に一瞬身構えたのがわかる。 「そんなに構えるようなことでもないけど…。あのさ、もふかちゃんて◯◯女子大なんだって聞いたけど。本当?」 「えー、と。…そうです」 別に隠すようなことでもないので素直に肯定するが。あまり前後関係もなく急に持ち出された話題に面食らう。 「それで来年の三月で卒業なんだよね。…あのさ、うちのライブハウス、従業員に一人欠員が出そうなんだよ。女の子なんだけど妊娠中で。旦那さんも不規則な仕事で、夜遅い時間帯の勤務はとてもじゃないけど続けられそうもないって話でさ」 「ああ、なるほど」 何となく話の筋が見えたような、いや違うかも、あんまり期待するな。と冷静にならなきゃと自分を抑えた方がいいような。まだ何を言われたわけじゃない、と用心深く慎重に相槌を打つ。 こっちの警戒振りを気にするでもなく、岡庭さんはあっけらかんとその申し出を口にした。 「でさ。もしよかったら、もふかちゃん、…ああ、『板谷さん』だっけ。うちに就職する気ない?給料すごくよくはないけど。一応社保完の正社員にはしてあげるからさ。仕事の終わる時間はどうしても遅くなるけど、その代わり始業は普通よりゆっくりだし…。それに、副業可だよ。うちは」 「副業?」 岡庭さんは生真面目な顔つきで頷いてみせた。 「もふかちゃんがうちの従業員になってくれれば、今までみたいにコラボゲストとして出演とか急な代役で出てもらうにはうってつけでしょ。しかも、それで報酬が出れば個人の懐に入れて構わないし。まさに一石二鳥でしょ。…まあ、それだけじゃなくて。普通に運営とか企画とかもやってもらうし、事務も雑用もひと通り全部こなさなきゃいけないけど。社員の数限られてるからどうしても何でも屋になるしかないからね。でも、◯◯女子大卒なら。まあ問題なく対応できるだろうと思うよ。頭の回転はよさそうだし、何よりきちんと自分を分析して考える力があるのがいいしね」 「…すごくありがたいお話ですけど。これまでいくつも会社落ちてるし。大学名はあれですけど、なんか欠陥があるのかも」 ここで自分を売り込まないでどうする。と考えつつも自己否定評価が抜けなくてついぼそぼそと自分をディスるような呟きを。堂前くんがこっちを睨んでるような気もするが、そちらに顔を向ける勇気もない。 岡庭さんははは、と声を出して明るく笑って立ち上がり、コーヒーメーカーに近づいてポットを手にしてこっちへ戻ってきた。 「それはまあ。縁がなかったということで、そういう会社とはさ。それに向こうも何となくわかるんだよ、この子は本当の本心ではうちに来たくないんだろうなあって。内定出しても仕方ないと思ったら早めに切るのは普通の対応でしょ。…どうかなぁ、板谷さん?うちで働いて時々歌いながら、ちょっと本気で曲作りにも取り組んでみれば?バンドのメンバーだって新しい出会いがあるかもしれないし。それに、もし結果的にプロになれなくても。音楽周りの仕事に就いてライブイベントの運営や企画をやるのも楽しいよ?この業界が好きなら」 「それは。もちろんです」 わたしが答えるのと堂前くんが黙って軽くわたしの脚を蹴るのと同時。いや痛みなんて全く感じないくらい軽くだけど。このチャンスを逃すな、さっさと返事しろ。って意味だろう。わかってるってば。 支配人は思い通りになった、とばかりに満足げに頷いた。 「じゃあ、今度改めて面接やろう。その時は一応形式に則った履歴書持ってきて。…あ、リクルートスーツは必要ないよ。いつもの格好で大丈夫だから」 「そんな就職面接。…最初で最後、かも」 あのくたびれかけてる黒のスーツ、もしかしたらもう着ることもないのかな。ようやく就活の終わりが見えたのかも、って実感が不意に湧き上がってきてわたしは思わず呟いた。 岡庭さんはわたしと堂前くんの前の冷めたコーヒーの入ったカップを干すように促し、お代わりを勧めながら茶目っ気たっぷりに受け応えた。 「まあ、仕事はちょっと不規則だったり繁忙期と暇なときが極端だったり。普通の会社員とはだいぶ勝手は違うけどね。それでも音楽が好きなら絶対楽しい仕事だよ。…いや、それにしても。ライブハウス専属のフリーのボーカルが来てくれるのがやっぱり一番ありがたいかな。どうか今後ともよろしくね、もふかちゃん」 そういう次第で、わたしの迷いと苦難に満ちた就活はある日突然すとんと終結した。 まさかライブハウスの従業員になるなんてウルトラCの解決法があったとは。としみじみ思ったが、これは実際には偶然の賜物というか。ほんとにたまたま欠員が生じるタイミングだった、っていうのが全てだったんだと思う。 当たり前だけど毎年新卒を採用するような職場ではないから。当然一般に向けて募集もしていない。大概欠員が生じたときに伝手で人を見つけて補充する、ってのが通常のやり方みたいだ。わたしは運がよかった。
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