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第十八話 名曲
敷地案内板を一目見るだけでもずいぶん広大なキャンパスだと凌介は思った。一週間前のワイドショーでは、「同准教授は現在自宅謹慎中」と報じられていたが、その自宅を知らない以上、ほかに行く当てはない。長本研究室は西G号館4階、内線番号はxxxx。いつかの名刺だけが頼りだった。
もう一度だけ、凌介はスマホのトーク画面を開いた。五秒、十秒。前となんの変化もない画面を閉じようとしたそのとき、フキダシの脇に白い文字があらわれた。
【既読】
長い間ほったらかしにしていたチャットをなぜ今、佳樹が確認したのかはわからない。でも理由なんかどうだってよかった。凌介はずっとこの二文字を待っていたんだから。今ならいける。そんな根拠のない自信だけを頼りに、一度は繋がらず諦めた番号をゆっくりタップした。深呼吸。心臓がうるさい。
呼び出し音が一回、二回と鳴る。つまり受話器は上がっていない。これで在室を確認できなければサプライズ訪問は諦めようと思ったそのとき、永遠にも思えたコール音が途切れた。
「ハロー、ディスイズ・ナガモト・ラボラトリー、ハウキャナイヘルプユー?」
「っ……」
思いがけない応答に一瞬身構えたものの、凌介が冷静に頭を整理できたのは、もちろん空港勤めの経験もあるが、高専時代、数少ない女子が全員留学生だったから、女っ気に飢えて英語を勉強したんです、なんていう会話を佳樹としたのが今ごろ懐かしかった。
「ハロー、マイネームイズ・リョウスケ。キャナイトークトゥ・プロフェッサー・ナガモト?」
「ヒーイズビジー・アットディスモーメント」
「アイシー……バット、アイ・インシデンタリーピックドアップ・ヒズ・ボーディングパス……シームズトゥビー・ベリーインポータント……」
そう自分で言いながら呆れた。冷静というくせに凌介は結局いちばんずるい手を使った。「偶然、先生の搭乗券を拾った者ですが」なんて、それを紛失したせいで大変な目に遭ってる人間に残酷にもほどがある。けれど嘘も方便だ。あの紙切れを拾わなければ、佳樹と出会うこともなかったのだから。
「オーケー、ジャストホールドオンプリーズ」
その言葉と同時に、電話口は保留音に切り替わった。耳馴染みのあるメロディはたしかビートルズの『レットイットビー』だ。レットイットビー(なるようになる)だなんてずいぶんなケンカを売られている。でも照れ屋で天邪鬼の佳樹の研究室だと思えばそれさえ愛しかった。それにこのケンカは凌介の勝ちだ。保留にするということはつまり、近くに本人がいるはずだから。
懐かしい声が耳に届いたのは、同じサビをかれこれ三回は聞いた頃だった。
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