第十五話 夢のつづき

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第十五話 夢のつづき

「そんで凌介、あんたいつまでこっちにおるの?」  漆塗風のプラスチック盆にみかんを山盛りにした母が、突然仕事を辞めて帰ってきた長男に声をかけた。凌介にとっては懐かしいイントネーションも、季節を問わず鉛色の空も、つま先に感じる電気炬燵の熱も久しぶりすぎて現実味がなかった。 「いや、まだ帰ったばっかりだからわかんないけど、バイトしてお金は入れるから一年は置いてほしいかな」 「あらそんなに。まぁいいけど。やりたいことあるんはええことやわ」  母は相変わらずあっけらかんとした調子でそう言った。大層な診断書を持って帰ってきたくせに、意外と元気そうでほっとしたのかもしれない。 「僕さ、明日、学校行ってこようと思ってる。久しぶりに先生達のカオ見に」 「え、あんたそんな真面目な生徒やったっけ?」 「不良とかヤンキーだって在学中は全然学校来ないくせに卒業したらやたら来るでしょ」 「あはは、たしかにそれはそうかも」  そう言った凌介自身は不良もヤンキーも漫画でしか見たことがなかったが、母は自身の学生時代に思い当たる節でもあるのか、笑って炬燵の反対側に腰を下ろした。  母にも伝えたように凌介にはやりたいことがあった。まだ漠然とした希望に過ぎないけれど衝動が疼くのだ。帰省した翌日には母校を訪れたのも、この勢いを萎えさせたくない一心からだった。  卒業以来、数年ぶりに訪れた職員室は当時と何も変わらず凌介を迎えてくれた。相変わらず高専という場所は制服もなければ校門も無防備。唯一の変化と言えば、昔よりさらに留学生が増えたせいで、細面に眼鏡の元クラス担任はオンライン翻訳を駆使してレポート添削の真っ最中だった。 「渡辺先生、お久しぶりです。すいません、急に」 「おー、中井。おまえ事前にメールするとか大人になったな。そんなに真面目な生徒だったか?」 「母と同じこと言わないでくださいよ」 「しかも手土産なんてほんとにおまえらしくない」 「いや先生、こう見えても僕、社会人四年目ですからね」 「そうかぁ。ワシも老けるわけだわ」  四年。専門学校に二年行ったから、卒業から数えれば六年だ。短いようで長いその時間を巻き戻すために凌介はここにやってきた。 「だってこんなことナベセンにしかお願いできませんから」  懐かしい愛称とともに凌介が成田土産を差し出すと、クラス担任は呆れたように首をぽきぽき鳴らした。 「そりゃそうだが菓子で買収されたと思われたらたまらん」 「あー、それはたしかに。って冗談ですよ。深い意味はぜんぜんないんで、先生方で召し上がってください」  凌介がそう言い終えたとき、一人の男子生徒が「失礼します!」と元気よく職員室の引き戸を開けた。両手には凌介がいま差し出したのと似たような菓子箱を捧げ持っている。その中身に凌介はすぐにピンときた。期限遅れの提出課題だ。たぶん箱の中身は電子工作の授業で作る基盤か何かだろう。 「じゃあ先生、僕、失礼しますね。よろしくお願いします」 「おー、まぁやれるだけやってみるわ」  とっくの昔に卒業した自分より、現役生の面倒を見るのがナベセンの本来の仕事だ。にもかかわらず面倒な願いを引き受けてくれた恩師には一生足を向けて寝られないと凌介は思った。  アルバイトを夜の仕事にしたのは、昼間は勉強に専念したかったからだ。父のなじみのフィリピンパブ。業務は、開店・閉店業務、清掃、それにドリンクづくり。頭脳より体力勝負のルーチンワークだったが、英語が得意なおかげでキャストと意思疎通できるのが重宝されたし、そもそも若いというだけで歓迎された。そんなで居心地のよいバイトから帰り、昼前まで眠って、あとは夕方の出勤まで図書館に通う。それが凌介の日課になった。  ある日、勉強の息抜きに書架をぶらついていたら長本佳樹の著書が凌介の目に留まった。発行は六年前。発行日の古さに反して本は真新しく、要するに手に取る人が少ないのだろう。それでこんなやりとりをした。 〈図書館に佳樹の本あったから借りた〉 〈ありがとう。サインしようか?〉 〈いらないよ笑 でも面白かったら自分でも買うんで、そのときはサインくださいね〉  そうは言ったものの、内容は凌介にとってかなり難解かつ専門用語が多くて意味不明だった。それも正直に伝えたら、〈専門書だから仕方ない〉と励ましだかなんだかよくわからない返事が返ってきた。  それから、谷崎潤一郎の『陰影礼賛』も借りた。佳樹が愛読書としてウェブサイトに挙げていた作品だ。日本の伝統家屋の建築技法がどうとか、装飾がどうとか、照明が、仕上げがなんてことがつらつらと書かれたその本が佳樹はどうして好きなのだろう。正直、凌介は、大工でもないくせにわかったような口きくなとしか思わなかった。もちろんそんな感想を佳樹に送ったりはしなかったけど。  佳樹とのやりとりは、また一週間ほど既読のつかない時期に入っていた。それでも別に気にならないのは、直接連絡を取らずとも向こうの様子は凌介に筒抜けだからだ。研究室ブログには彼らの日々がつぶさに綴られているのだから。  しかしある日を境にその状況は一変した。白い画面に浮かぶ404 Not Foundの文字列。お探しのページは見つかりませんでした。ブログも研究室のサイト自体もいつのまにか消えていた。  不安が的中したことを凌介は雪の朝に知った。前の晩、バイトに出勤したときはまだほんの降り始めだったみぞれ雪が、明け方には町を白く覆っていた。おかげでいつもより遅く届いた朝刊の隅に小さな記事をみとめた。 【研究費不正受給 陽京工業大学長本佳樹准教授】 「は?」  見出しを目にした瞬間からちょうど一拍分、心臓が凍りつき、それが元に戻ってようやく凌介は呼気ともため息とも声を吐いた。
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