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第十七話 いつかのイルミネーション
キャンパスに降り注ぐ雪が、嫌なことすべて覆い隠してくれればいいのに。窓の外をぼんやり眺めながら、佳樹はそんなことを考えていた。もちろん東京でそんなに雪が積もるわけがない。それでも不思議といつもより静かなのは学生研究室に人気がないからだ。冬休みに入り、学生は皆アルバイトに忙しい。残っているのは一人か二人だろう。それなら今日は自分も少し休もう。ずっと課題の採点や論文の添削に追われていた。応接ソファにごろんと寝転んで天井に両手を伸ばしても求めるものは手に入りそうにない。そもそも何か求めていたのかさえ今となってはあいまいだ。
だいたい今の佳樹は一切の進退を上層部の判断に委ねている身の上だった。機材も蔵書も、それにこの部屋だっていつまで自分のものかわからない。本当に所有物と言えるものなど、身にまとっている衣類と引き出しに入れっぱなしのパスポート、財布、その中身、あとは電源が切れてそのままのスマートフォンくらいだ。不祥事を面白おかしく書き立てたい輩がスマホにまで着信を入れるようになったから、いつしか充電するのを止めた。寝られないからアラーム機能もいらないし、充電器だって失くした。別に充電器がなくたってパソコンのUSB端子から充電すればよい話だが、今そんなことすればまた大学の電気の私的利用、盗電、国民の血税なんて言われるに決まっている。そんな言葉、思い出すだけで胃がむかつく。
「りょうすけ、ニュース、見たかな。見たよな……」
しかしそのとき佳樹の口から飛び出したのは、苦い胃液ではなく、努めて忘れようとしていた大切な人の名前だった。仕事を辞めて地元に戻ったと聞いた。その後もくだらないやりとりを交わすたびに胸が温かくなった。今回のことで迷惑をかけたくなくて、ずっと我慢していたのだ。名前を口に出したら最後、調子のよくない胃腸がキュウキュウと震えた。
あの日はふたりして夕暮れ時からほろ酔いで、甘ったるいキスをして、すべすべ柔らかい肌に縋りついて眠った。別れ際に彼が言った言葉を佳樹は今でも鮮明に覚えている。凌介は「ダメな大人ですね」と呆れたように笑った。その通りだと思う。甘ったれで意思が弱くて、自分から距離を置いたはずの誰かに手を伸ばす。
とうとう佳樹はパソコン本体に挿さったコードを引き寄せた。やああって、起動できるだけのエネルギーを得たデバイスが勢いよく震え、通知ランプが点滅をはじめた。白、青、オレンジ……規則正しく明滅する色とりどりのランプのなかでもグリーンは特別だ。緑色のランプはチャットアプリに未読メッセージがあるときしか光らない。
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