第十九話 体裁くらい

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第十九話 体裁くらい

 会いたいと願った人間が目と鼻の先にいる。その状況をにわかに信じられず佳樹は言葉を失った。アンダーウェアに擦れた鳥肌がぞくぞくとこそばゆい。「先生のボーディングパスを拾ったとおっしゃってます」。そう言って子機を持ってきた汪にヘンな風に思われなかっただろうか。恐る恐る保留を解除し、佳樹は受話器をかまえた。 「……もしもし?」 「よしき!」 「りょうすけ……?」 「佳樹、よかった、大学にいた!僕正門のとこにいますから!」 「は?何言ってんの……?」 「えっと、中華屋とファミレスと銀行があるとこです」  早口でそう告げられた後に耳に響くのは、車の排気音、駅のアナウンス、それに商店街のセールの呼び声。正門と目と鼻の先のロータリーだ。もう二十年以上、このキャンパスにいる佳樹がそれらを聞き間違えるはずがなかった。これから夜にかけて気温は下がる一方だと、お天気アプリで読んだばかりだ。そんな寒空の下、正門の凌介がいる。  「し、七時ぐらいになる……」  入り乱れる感情を堪え、辛うじてそう告げた。喉の奥がキュウっと締まる感覚に涙が出るのだとわかった。 「わかりました。待ってますね……泣かずに来れます?」 「……何様だよ……」  そうしてわずか一分足らずの通話は切れた。というより佳樹自ら終話ボタンを押した。待っててと伝えたかったけど、余計なことを言ったらぎりぎりで堪えている気持ちが崩壊しそうだった。 「先生、どちら様でしたか?」 「ん、ああ、知り合いだった……。心配してくれてさ。取り次いでくれて助かった。ありがとう」 「よかったです、では今日は僕もそろそろ失礼します。ガールフレンドと食事に行く約束をしています」 「あ、そうなんだ」  冷静に考えれば偶然半券を拾った人間が知り合いのはずがない。けれどそんなちぐはぐなやりとりにも気づかないほど彼はデートが楽しみなのだと、佳樹はそう思うことにした。 「そしたら、楽しんでこいよ」 「はい、ではお疲れ様です」  照れ臭そうにはにかんで准教授室を後にする後ろ姿を見送り、佳樹はその場にうずくまった。震えるほど寒いのに冷や汗をかくほど暑い。悪寒にめまい、腹痛。最近、緊張するといつもこうだ。凌介は決して自分を傷つけたりしない。不安と期待の区別もつかなくなった体にそう言い聞かせて、佳樹は大きく息を吸った。頬に手をあてればざらりと伸びっぱなしの無精ひげが痛い。身づくろいもままならない弱った中年をデートに誘うなんて、つくづく世の中、変わった奴もいるもんだと思った。
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