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第二十話 何か言って、何も言わないで
電話が切れても、凌介の耳にはずっと佳樹の声が響いていた。本来なら深く通るはずの低音は掠れて潤いをなくし、今にも泣きだしそうだった。顔を上げると、大学のシンボルだという時計塔は六時半を指していた。たしか春になるとその塔を囲むように桜が咲く。長本研では新歓を兼ねた花見が恒例行事だ。花見の次は防災訓練。夏になれば合宿。ブログのおかげで佳樹の切り盛りする研究室にはずいぶん詳しくなったのに、よく考えれば凌介は佳樹本人のことを何も知らない。生ビールが好物で、射手座のB型。愛読書は『陰影礼賛』。それだけだ。
時間つぶしにコンビニに入ると、凌介は保温ケースからミルクティーとレモネードを一本ずつカゴに放り込んだ。あれだけ気になってたまらなかったスマホも今は不思議と見る気が起こらない。正門に戻り、寒さに耳たぶがジンとかじかみはじめたそのとき、とうとう、工事中の簡易囲いの向こうから人影が姿を現した。ボリュームのあるモッズコートのせいで細いジーンズの頼りなさをいっそう際立たせた影は、うつむいたままスンと鼻をすすって言った。
「『泣かずに来れる?』って、何様?」
「ね。自分でもそう思いました。寝れてます? 飯も、食えてますか?」
フリーターが口にするにはずいぶん不遜な物言いが口をついて出るのは、目の前の年上の男があまりに無防備で危なっかしく見えるせいだ。凌介が言い終える前から佳樹は首を左右に振っていた。
「あの、これ、今コンビニで買ってきました。どっちでもお好きなのどうぞ」
コンビニ袋を差し出すと佳樹は丸ごとひったくって蚊の鳴くような声で礼を述べた。そして「行くぞ」と無言で目配せをした。たぶん街灯の下にいたくないのだ。泣かずに来れなかったから。
「このあたりじゃないほうがいいですよね?」
「……そうね」
「じゃあ、行きましょうか」
凌介に手首を掴まれた佳樹は存外素直に頷き、視線を駅前に向けた。今、ふたりがこの場所を離れるには二つの方法がある。電車かタクシーだ。前者は駅の構内が明るすぎるからだめだ。となれば必然的に次の行動は決まった。都合のよい車が二人の前でドアを開けるまで、それほど時間はかからなかった。
「五反田駅で」
「……りょうすけ……!」
「なんですか」
「……いや、なんでもない……」
佳樹が何か言いかけた以外、ふたりとも無言だった。代わりにタクシーに乗り込んだとき掴んだ佳樹の手首が、どくどくどくどく、凌介の手の中でうるさいほど脈打っていた。
「なんで?」
怪しげなネオン看板が増えるにしたがい、佳樹が出し抜けに問うた。なんで会社を辞めたのか。なんで突然大学に来たのか。なんで行き先がラブホテルのメッカなのか。疑問符の続きはなんとでも解釈できそうだった。
「なんでって、本にサインくれるって言ったじゃないですか。ほら」
そう言って凌介がバックパックから彼の著書を取り出すや、佳樹は呆れたようにそっぽを向いた。「ばかじゃないの」と呟いた吐息で車のガラスが白く曇った。
「あ、そこのポストの角でいいです」
凌介の指示を受けた運転手は静かに車を停め、手早く会計を済ませるとさっさと走り去っていった。年の瀬も押し迫った夜だ。降ろした客のことなんかいちいち気にしていられないに違いない。繁華街からそれほど離れていないのに、二人のいる一画だけが異空間のように静かだった。人目を忍ぶ者ばかりが集まる、ホテル街のど真ん中。
「ねぇ、ラブホの入り口ってさ、衝立が立ってて、琉球地方の伝統家屋みたいだよね」
「いきなり何言い出すんですか」
それまで会話らしい会話などひとつもせずにいた佳樹の突拍子のない言葉に凌介は思わず面食らった。見ればたしかにふたりの正面には建物のエントランスを隠すブロック塀が立っていた。
「まったく、頭いいのか馬鹿なのかわかんないんだから」
「は? 頭よかったら半券もなくさないし書類仕事だってちゃんとこなせてるよ」
「そういうこと言わないの」
突然やけっぱちになって自らを貶めはじめた佳樹の体はしかし震えて足元もおぼつかなかった。怯えた肩を抱き塀を周り込んだ先で自動ドアが音もなく開いた。
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