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第二十一話 選ぶのも決めるのも
いかにも東京のタクシーらしい丁寧な運転にも拘わらず、佳樹は車酔いのような胸の悪さを必死に堪えていた。
「どの部屋がいいとかありますか?」
「どこでもいい、早くして……」
車中、何度身じろいでも離れなかった凌介の手が今は手際よくパネル画面を操作する。そこに並ぶベッドルームのどれかにこのまま連れていかれるのだろう。
「慣れてんね」
「慣れてはないけど、ATM使うの早いとかはよく言われますかね。あと、ごめんなさい、さすがにちょっと衝動的すぎましたよね」
「ここまで来といていきなり冷静になるのかよ、草食系……」
挑発するようにそう言ったのは、上昇するエレベーターに悪心を逆なでされ悪態でもついていないと倒れてしまいそうだったからだ。凌介は柔らかな笑みを浮かべて壁を背にした佳樹に迫った。
「抱きたいって言ったら抱かせてくれますか?」
体の左右に腕を回されても不思議と恐怖は湧かなかった。凌介の茶色い瞳は、言葉とは裏腹に固く理性を保っているように見えたから。佳樹がイエスともノーとも言えずにいるうちに上昇は止まりベルが鳴った。十数歩でたどりついた室内はベッドの横幅が広いこと以外は普通のホテルと変わらない。むしろ普段佳樹が出張で使うビジネスホテルよりよほど快適よさそうに見えた。
靴を脱ぐと同時に、二人一緒にベッドに倒れ込む。宿泊施設特有の乾燥したリネンの匂いが佳樹の鼻腔にそよいだ。もうしんどい、眠い、楽になりたい。そう声に出ていたのかもしれない。モッズコートがゆっくり剥がされ、少し体が寛いだ。凌介の胸と二の腕の間にできた三角の隙間に鼻先をつっこんでようやく呼吸ができた。子どもをあやすような掠れた凌介の声とともに、佳樹の耳端に温かいものが触れた。
「ね、どうします?抱かせてって言ったら」
「……やだ」
「どうして?」
「……腹、痛いから……下してるし……尻とか無理……」
そう自分で口に出しておいて佳樹はあまりのみっともなさに泣いた。断り文句としてこれ以上情けないのはちょっと思いつかない。
「そっか、顔色悪いですもんね。お腹痛いのにいきなりタクシー乗せて不安でしたよね、ごめんなさい」
「……怒んないのかよ」
「いや、むしろ、……わりと具体的に考えてくれてて嬉しいです」
その笑みに、佳樹はまだ少し残っていた緊張がすっかり抜けるのを感じた。そうだ、中井凌介はこういう男だった。他人の言動をいちいち問いただしたりしないし、いつだっていちばん欲しい言葉をくれる。
「寝れない、ご飯食べれない、お腹痛い。あとは?僕にできること、なんかあります?」
鈍痛に縮こまる佳樹の腰骨を温かい手のひらが撫で、耳馴染みのよい凌介の声がもう一度、「なんかある?」と繰り返した。
「誰かに、お前は悪くないって、言ってほしい……」
「もう、それを先に言ってくださいよ。佳樹はなんも悪くないですって。そりゃルールはルールかもしれないけど、台風だのストライキだのどうしようもないのばっかじゃないですか。それで不正とか馬鹿馬鹿しい」
「……それだけじゃないけどさ……私がボーっとしてたのもあるし……でも……もう勘弁してくれよ、わけわかんねぇよ……」
「うん、うん、そうですよ。だってこんなに真面目に研究しててさ、難しい本だって書いて、学生さんにも慕われて。僕だけじゃない、みんな知ってます。あなたの言ってること間違ってないって。だいたいこんな頭いい先生にちまちました経理作業やらせるほうが税金の無駄ってもんです」
ずっと体に巻きついていた凌介の手が顎先をなぞったのに従い、佳樹はゆっくり顔を上げた。するとちょうど凌介のきれいな顔がこちらに近づくのが見えた。胸が張り裂けそうに痛い。腹も痛い。目も鼻も喉も痛い。頬に柔らかな舌が触れた。まだ痛いと泣いた。しばらく涙粒をぺろぺろやっていた舌先は、きりがないと気づいたのか、やがて諦めキスに変わった。舌に代わって頬を拭うティッシュは分厚くて柔らかい、敏感なとこを拭くやつだ。そういう場所にいるのだから当然といえば当然だった。凌介も同じことを考えたのか、ふたり同時に笑った。洟をかんで丸めたティッシュもことごとくゴミ箱を外してまた笑う。もう顔面、涙と鼻水でぐちゃぐちゃなのに、凌介がずっと愛おしそうな目をしているのが佳樹には不思議だった。
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