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第二十二話 ずっとこうしたかった
汗ばんだ首筋の匂いが消えることなくあたりに漂っていた。下心がなかったとは言わない。でもベッドがあってふたりきりになれて、おまけに予約もいらない場所なんて凌介にはラブホテルくらいしか思いつかなかったのだ。
佳樹はさんざん泣いてようやく落ち着いたと思ったら、今度は血相を変えて手洗いに消えた。浴室から響く水音はしばらく止まりそうにない。でも別に急ぐことはないと凌介は思っていた。今夜はどれだけ男の本能が疼いても、愛しさがそれを上回るという自信があったからだ。
適当に選んだホテルのわりに、レモネードを電子レンジで温め直すことができたのは嬉しい誤算だった。空調の温度を上げるついでに室内の明かりも数段階落とす。まったく、鼻炎用のティッシュやら、やたら調整項目の多い操作盤やら、そんな場所に佳樹といるのが改めて驚きだ。
佳樹はしばらくして血の気の失せた頬に黒髪を張り付かせて戻ってきたかと思うと再びベッドに倒れ込んだ。はぁはぁと途切れ調子の息はトイレにこもる前より辛そうだ。
「出すもん出しても楽になんない?」
「いや、あの……迷走、神経反射ってやつで……、しばらく横になってたら、治るから……」
「ん?メーソー何ですか?まぁいいや、信じます。でも子どもみたいな空元気はナシですよ。大人なんだから」
冷えた手のひらに加熱したペットボトルを握りこまされた佳樹はゆっくり両目を閉じた。聞こえるのは空調の稼働音と胸苦しそうな息づかいだけ。凌介は佳樹に並んで横たわり検索画面を開いた。
【メーソーシンケイハンシャ とは】
迷走神経反射。正しくは血管性迷走神経反射。脳に十分血液が行きわたらずに失神やめまいなどの症状が起こる病気。原因は、立ちっぱなしや恐怖感、情緒不安定、ストレス、腹痛などの激しい痛み。
さすが大人なだけあって、佳樹は自分の体のことをよくわかっているみたいだった。さて血管ナンタラ反射の対処法は、「まず体を横にして、あたたかくして、水分を摂りましょう。お腹や背中をさすってあげるのも◎」だそうだ。今の二人に必要な情報すべて、どこかの内科医が自院のブログに綴っていた。
「んっ、ふぅ、はぁ……ん……」
凌介は佳樹と対面するように体を反転させひどく汗をかいた体を抱き寄せた。佳樹は佳樹ですぐに凌介の胸元に鼻先を寄せ、すんすんと浅い呼吸を繰り返す。さっきから佳樹はその場所がお気に入りだ。きっと体の影に自分がすっぽり収まるからだと凌介は思っていた。ほら、影の下って何かに守られているようで落ち着くから。
「息苦しいの治まったらあったかいの飲みましょうか」
「……飲む」
「うん、飲もうね」
しかし、飲むと即答したくせに佳樹は身を起こすこともせず、それどころか上掛けを頭の先まで引っ張り上げた。
「こら、寝ちゃうまえに水分だけとっときましょう?」
「……」
「もう、じゃあ、そのままでいいですから」
仕方なく凌介はボトルキャップをねじり、熱いレモネードを自らの口に含んだ。そのままそうっと上掛けをめくると一匹のヤドカリがこちらを窺っていた。そいつを半身だけ引っ張り出し、深く深く口づけた。
「んっ、ふ……」
「んく……んっ……」
唇を押しつけた瞬間、乾いた皮膚がわずかな水分を得てぴったりくっついた。それでも甘い飲料をじわりじわりとうつすうちに固い唇は次第にほころび、そしてついに舌同士が触れた。
「んは……」
「もっと……」
「自分で飲んで、大人なんだから。ね?」
凌介がそう言いきかせても佳樹はいやいやと首を左右に振った。まったく、とんだ甘えん坊だ。もっともっととねだる舌先に応じるように、凌介は角度を変えて何度も何度も口づけた。
爽やかなレモンの香りと、そうでもないのにやけに愛しい汗の香り。体を温めて、水分補給させて、あとは何するんだっけと凌介は受け売りの対処法を反芻した。そしてよれよれのボトムに指をかけた途端、佳樹の肩がびくりと震えた。
「ん、あ、ちょっ、やめ、ろ……、腹、壊してるっつっただろ……!」
「わかってます」
わかってるならどうしてジーンズ脱がそうとするんだと問いたげな佳樹は、たぶん可愛い勘違いをしている。
「おい、凌介……!」
「だから違いますって」
ジッパーを半分下げ、ほのかに湿ったショーツに凌介は己の手のひらを重ねた。慎ましいへその下で、痛い思いをしたであろう佳樹の消化管が小さく泣いているのがわかった。
「『痛いの痛いのとんでけー』って、やってあげたかったんです」
「嘘つけ、そんなバキバキに勃起させて」
「いいでしょ、別に。自分でもわかってます。でも今は佳樹のしんどいのが少しでも楽になりますようにって、まじでそれしか思ってない」
佳樹は「絶対信じない」と呟いてそっぽを向いてしまった。けれど二人ともが、それはただの照れ隠しだとわかっていた。
「……若いくせに」
「ええ、佳樹よりひと回りも若いんです。今時の若者の我慢強さ舐めてもらっちゃ困りますよ。佳樹は大学の先生でしょ?」
「うるさいな、進退伺い中だよ……てか、それ、ほんとにガマンできんの」
「どうにかします。それとも手伝ってくれますか?」
「やだね」
むっつり照れくさそうな佳樹の横顔は正直そそった。いくらどうにかするとは言っても、あんまり煽られたら責任は負いかねる。そう思って凌介は軽く釘を刺した。
「僕、佳樹が好きだって言ってた本読んだんですよ」
「本?」
「インエーライサンってやつ」
「ああ……」
タイトルを聞いて、佳樹は凌介がどこでその情報を得たのかピンと来たらしい。眉間のしわが深くなり、まっすぐなまつ毛が一度揺れた。けれど佳樹が見せた抵抗らしい抵抗はそれだけで、あとはべッドカバーで丸ごと体を覆ってもおとなしくされるがままだった。
「エロい本でした」
「は?」
「暗いとこで可愛い子みると、明るいとこで見るよりエロいって」
「そんなこと書いてないだろ」
「書いてあったよ。ちゃんと読みました?あとね、色白の子より、ちょっと日焼けした子のほうが照れた顔がそそるとか。実は僕も今めちゃくちゃそう思ってるんです」
実際のところ、凌介だってちゃんと読んじゃいなかった。それどころか一度目を通した後、内容なんてさっぱり忘れていたのにやけに語気が荒いのは、思った以上にお預けが辛いせいだ。佳樹はしばらく考え込んだ後、お決まりの目つきで一言「ばか」と呟いた。
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