第二話 メッセージ

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第二話 メッセージ

 窓ガラスの隅に溜まった甘い土埃の匂いを吸うともなく吸って、佳樹は通り過ぎる景色を眺めていた。第二ターミナルで追加の乗客を乗せると、空港リムジンバスは八割方の乗車率になった。隣同士に座りたいグループ客が多いのか、隣が空席なのはラッキーだ。  ラッキーと言えば一度は紛失した搭乗券が見つかったのも幸運だった。案内カウンターでもそんな落とし物は届いていないと言われ、諦め半分で手洗いに飛び込んだとき、パーカー姿の青年が洗面台から紙切れをつまみ上げるのが見えたのだ。探し物が見つかるときの天啓にも似た確信と、確認するまではぬか喜び禁物という焦燥感がないまぜになって、ずいぶん大きな声を出した。青年は佳樹の顔と半券を見比べ、すぐに状況を理解したのか、「どうぞ」と紙片を差し出した。歌って踊るアイドルみたいな黒目がちなまなざしがこちらを見つめてほほ笑んでいた。 「あ、あぁ、これです、本当に助かりました!ありがとう、ありがとうございます!」 「え、そんなに?ご旅行帰りですか?」  情けない自分の声とは反対に、青年の落ち着いた物腰は「頼もしい」という表現がしっくりきた。ラフな上着は一見旅行者にも見えたが、それにしてはバックパックも背負ってなければスーツケースも引いていない。代わりにパーカーの襟元からネクタイがのぞいていた。  「お役に立てて何よりです」と笑った顔はすらりと大人っぽくて、不思議な安心感がある。とっさに、「御礼にお茶でもどうですか?」と口をついて飛び出したのは、普段、学生相手にカンパを出す癖が出たのかもしれないし、年配者の矜持が疼いたのかもしれない。しかも、佳樹が軽率な提案をひっこめるより早く彼は誘いに応じた。 「いや、あの、ほんとに助かったから。変な意味じゃないです」 「はい。普通に嬉しいです。ちょうど僕、休憩入ったとこなんです。お客様さえよければ、ぜひご一緒させてください」  そんな一期一会に思いを馳せていたとき、車窓を中世ドイツ風の古城が横切った。千葉県浦安市にあるテーマパークのシンボルだ。ライトアップされた尖塔は、同じガラスに映る疲れ果てた顔とは違い、華やかなことこのうえない。  深いため息とともに佳樹はタブレットを起動した。そしてまだ真っ白なメモ画面を乱雑なペンで埋めていく。出張先はイスタンブール。何月何日、どこで誰と……、移動手段はこれとこれ……、タクシーは使っていない……。海外出張が終わったら必ず大学に用途と経費を報告しなければならない。これがうんざりするほど細かくておまけにアナログなのだ。証拠書類はもちろん原本。各種領収書は言うに及ばず、現地での写真やクレジットカードの利用明細を出せなんてこともある。中でも重要なのが航空券の半券で、万一、紛失なんてことになったら虚偽出張を疑われて立て替えた旅費が返ってこない。同じ説明を彼にもしたが、あまりに複雑で馬鹿馬鹿しいので先にこちらの気力が失せた。とにかく大学教員の海外出張は経費チェックが厳しいのだ。  ようやく思い出せるかぎりの旅程を書き出したとき、ふいにスマホが震えた。見れば、真新しいトーク画面に浮かぶ短いフキダシ。 〈中井です。さっきはごちそうさまでした〉  佳樹もたいがい何度も謝辞を述べたが、彼だって十分同じ言葉ばかり繰り返している。そんなにローストビーフサンドが嬉しかったんだろうか。しばらく考えて、佳樹は結局スタンプで返事を済ませた。思いがけないメッセージに浮ついている自覚があったからこそ、余計なことは書きたくなかった。
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