第三話 日常と非日常

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第三話 日常と非日常

 翌日は出張で使った機材の整理整頓に明け暮れた。今回の調査では騙し騙しで切り抜けたが、空撮用ドローンの調子が悪い。そうはいっても償却年限まで修理予算はつかない。新調してよいかどうかは財務課と交渉中だが、どちらにせよ時間はかかるし非合理的だ。でもまぁ、こんな理不尽にももう慣れた。なにしろ十八歳で入学してから二十年以上もこの大学にいるんだから。  そもそも形あるものはいつか壊れる。いかにも財務課への言い訳っぽい言葉だが真理だ。ドローンだけじゃない。建築物だってそう。残存する日本最古の建築物は六〇七年に建造された法隆寺だけど、世界には日本人には想像もできないほど古い建築物がたくさんあって、しかしそれは日本の建築技術や文化財保存の意識が高いとか低いとかそういう話じゃなくて、単純に気候や材料も関係する。たとえば日本は森林資源が豊富だけれど、木々が少なくて乾燥した地域では、石材や日干し煉瓦を使うしかない。どちらが後世に残りやすいかは見ての通り。でも、その耐用性だって建材の種類だけで語ることはできなくて……。  そんな担当講義で幾度となく話した内容が流れるように脳裏に浮かんだ。  土地の条件が左右する建築と都市の歴史。  ひとくちでいえばそんなようなことが長本研の研究テーマなのだ。  機材整理の次はメールチェック。ゼミ生から卒論と修論の進捗相談が何件か来ていた。それに案の定、専攻事務室からは出張報告書の催促メールも。あとは来週に迫った出張の連絡。これは共同研究を進めている海外の教授からで、調査ついでに彼が教鞭をとる大学で特別講義してくれという依頼を受けていた。  研究職とか大学教員とかいっても、きっとひとつひとつの仕事はサラリーマンと変わらない。こんな作業を大学院生の頃から繰り返して、気づけば今年、佳樹は三十九歳になる。  自身が卒業した研究室でポスドクになって、助教になって講師になって准教授になったと思ったら先代の教授が退官して、研究室に自分の名前がついた。けれど肩書きと比例して大きくなったのは責任と大嫌いな事務作業だけだった。特に事務作業はいまだにミスだらけでしょっちゅう怒られてばかりだ。あとは学生指導の合間を縫って調査に出かけ、残った時間で論文を書く。まぁ残った時間なんてないんだけど。  佳樹がやれやれと背伸びをしたそのとき、ふいにドアがノックされた。 「どうぞー」 「失礼します」 「ああ、今野か」  ドアの隙間から顔を出したのは卒論指導を受けもつ学部四年の女子学生だった。くるんと巻いた前髪に気楽なジーンズ姿。そんな今どきの出で立ちが黒髪リクルートスーツに変わる日はたぶん遠くない。佳樹が出張に発つ直前に大学院入試の結果が出て、長本研では唯一、彼女だけ不合格だった。指導教員の自分でさえショックなんだから本人はもっと辛いだろう。椅子にかけたままの佳樹と視線が合うほど小柄な彼女は、うつむき加減でこう切り出した。 「先生、いろいろ考えたんですけど、やっぱり留年して就活することにします。もう一年だけは学費を出してもらえそうなので」 「そっか。ご両親にも相談して今野がそう決めたんなら私は応援する。卒論は今の調子で仕上げながら就活ってことでいいか?」 「はい……」  心のどこかでは別の可能性を示してほしそうに頷く彼女に、佳樹は財布から一万円札を一枚手渡した。 「がんばったな、由馬も汪も、おまえも」  入試の結果がどうあれ、明日はもとから慰労会の予定だったのだ。今野は上手に笑顔をつくって、「私、明日はピザよりお寿司がいいです。落ちた人間がわがまま聞いてもらうことでいいですよね」と気丈に振舞った。 「うん、私はビールがあったらなんでもいいや。トルコ土産もあるぞ」 「えー、またあの甘いやつですか?もっと美味しい高級チョコとかがいいんですけど」 「文句言うなよ。あと出張の写真送るからブログにアップしといて」 「はーい。了解でーす!」  すっかりいつもの明るさを取り戻した様子で彼女は准教授室を後にした。進学だけはとんとん拍子に来たせいで、彼女たちの気持ちをわかってやれないのがひどくもどかしいときがある。そうでなくても自分があのくらいの頃はもっと感情的で、うまくいかないことは他人のせいにしてばかりだった。  あらかたメール返信を終えたところで佳樹はファイルから曲がった半券を取り出した。これを財務課に送って今日の業務は終わりだ。若いのに気丈な今野と、いい年して社交辞令を真に受けて、彼に次の出張予定を伝えた自分のおめでたさが対称的で思わず苦笑した。それでも、またビール片手に愚痴を聞いてもらえたら、この憂鬱さも少し晴れる気がした。
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