第四話 吹き流し

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第四話 吹き流し

 凌介は昔から飛行機が好きだった。  その無邪気な憧れをきっかけに高専で機械工作を学び、航空整備の専門学校まで進んだからには実際相当好きなんだろう。やけに他人事なのは、もう長いことドックから足が遠のいているせいだ。昨日、出会ったばかりの男に凌介は嘘をついた。「本当は整備士だけど体を壊して今は事務方」と。実際に壊したのは体じゃなくて心のほうだったが、楽しい雑談の腰を折らないためには、そうやってお茶を濁すしかなかったのだ。  ちなみに診断名は「軽度のうつ病」だった。たぶん今どき珍しくもない。正直、大袈裟すぎると思ったが、だからといって医者の診断が覆るわけもない。結局、ジェット燃料の匂いもエンジンの爆音も届かない総務部マネジメント部門が凌介の新しい職場になった。  オフィスの窓から見える機体は模型みたいに小さくて、これはこれで幼い日に抱いた純粋な気持ちを思い出すから悪くない。そのおかげか、ここ何か月かは嫌な頭痛の気配も忘れていた。それなのに昨日、係長は凌介を呼び出して言った。「体調が回復しているならぜひ整備の現場に戻ってほしい」と。  こんなときは風速計でも眺めるにかぎる。そう決めて休憩に入るや否や凌介は展望デッキに向かった。風速計を見ていると難しいことを忘れられる。だって考えてもみてほしい。最先端技術の結晶みたいな空港にあって、風速計の仕組みは単純明快。いっそ原始的といってもいいくらいだ。風が強ければ膨らむ。以上。五月の空を泳ぐ鯉のぼりと同じ。あのとき、サンドイッチを食べながらも凌介が駐機場に視線を向けていたことに長本准教授は気づいただろうか。  彼との出会いに興奮したのか、それとも現場復帰の打診のせいか、昨日はなかなか寝つけなかった。それで横になって「長本佳樹」なんて検索したのがきっと運の尽き。ヒット件数の多さに眠るタイミングを完全に逃した。  検索結果のトップは『長本研の紹介』というウェブサイトだった。プロフィール欄で笑っているのは、たしかに数時間前、向かい合って食事した男だ。違うのは無精ひげがないことくらいか。経歴はたぶんすごいけど、用語も研究もちんぷんかんぷん。  一方で、凌介にも理解できそうな日記形式のブログには、『歓送迎会!』『福岡で学会発表』『陽大祭で模擬店を出しました』『先生からホワイトデーの差し入れ』なんて微笑ましい記事が並んでいた。きっと研究室の学生達が書くのだろう。「先生、先生」と甘ったれな文体で綴られる長本准教授は、優しくて面倒見がよくて、お兄ちゃんみたいな存在で、射手座のB型。好きな本は谷崎潤一郎の『陰影礼賛』。  新情報に触れる度、愛しい気持ちになる半面、もやもやと居心地が悪いのは、きっと嫉妬しているのだ。彼のそばにいる学生達に。ついでにプロフィールから生年を逆算して驚いたところで凌介は眠るのを諦めた。
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