第五話 記憶

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第五話 記憶

 デスクで一度こっくり船を漕ぎ、我に返ってブラックコーヒーをひとくち。窓の外では、快晴に似合わずものすごいスピードで雲が流れていた。来週、また台風が来る。今年の台風の多さと規模の大きさは地球の気候変動が原因らしい。あの事故が起きたのも、もとはといえば台風のせいだ。一年前、凌介が整備部門に配属されて四年目の夏だった。  あの日、凌介のチームが整備を担当した機体は、分厚い雷雲のなかで着陸できそうなタイミングをうかがっていた。滑走路に飛来物が散乱しているからと、清掃が済むまで空中待機を命じられたのだ。しかし旋回しているうちに燃料が尽き、ダイバード先に向かったときにはもう限界。墜落こそ免れたものの胴体着陸、爆発、炎上、負傷者多数、死者二名の惨事となった。  燃料の残量を読み誤った機長はその責を問われたが、逆に言えば燃料が残り少なかったおかげで爆発しても延焼せず死者二名で済んだともいえる。それにダイバードの調整が遅れた管制室だって責任は同じだ。滑走路に待機しておくべきだった救急消防隊も後手に回り、おまけによくよく調べてみれば同シリーズの機体にはエンジンに初期不良が見つかった。  つまり事故はあらゆる不運が重なった結果だというのが調査委員会の出した結論だ。当然、一介の整備士の責任なんて砂一粒もありっこない。凌介だってそんなこと承知していたが、頭の理解と心は別物らしかった。気づけば燃料の匂いに胸がむかつくようになって、グローブを嵌める手が震えた。ゴーグルの奥に検証動画で見た黒煙の残像が揺れるようになった……。  相変わらず窓の外は強風だった。週間天気予報によればフィリピンの東の海上に発生した熱帯低気圧は、明後日にも新しい台風に成長する可能性が高いそうだ。散漫になった注意力を少しでも取り戻そうと、凌介はデスクの引き出しに手をかけた。  チョコレート、大事にとっておくつもりだったけど、脳が糖分を欲している。「こんなのしかないけど、お土産。もらって」と昨日、別れ際に長本先生がくれたものだ。 「あの人、来週、大丈夫かな」  呟きながら舌で転がしたチョコは意外にも繊細な味がした。
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