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第六話 いつものこと
「先生、チョコレート買ってきてくれたんですか!」
今野の満面の笑みを横目に佳樹はぐびりと天井を仰いだ。まだロング缶を半分空けただけなのに、今日はもう頭がふわふわする。最近、出張疲れがすぐに抜けない。
「うん、美味いか、それ」
「美味しいです、いつもの甘いネチャネチャしたやつより全然おいしい!」
「あっそ」
彼女が昨日宣言したとおり、学生研究室の作業台にはデリバリーピザの代わりにプラスチックの寿司桶が陣取っていた。
「そういや、年明け一緒に調査行きたいM1いるか?」
「んー、場所によりますね。あと費用」
佳樹の問いかけにまっさきに応じたのは、修士一年の男子学生だった。調査に学生を連れて行ったってどうせ観光旅行みたいになるのだが、荷物運びでもいないよりましだし、なにより彼らにとって史跡調査の実践になる。だから予算はいくらあっても足りない。こないだ採択された補助金があるにはあるけど、それでも男子の誰かは自分と相部屋になるかもしれない。節約のために。
「飛行機と、宿代は出せる」
「美味いもんあります? ちょっとバイト調整してみます!」
「うん、頼む。メシはわりと美味いと思う。あと私、来週また出張で一週間いないから、奨学金とかで指導教員のサイン要る奴は早めに持ってきといて」
その言葉を聞いて、すかさずホワイトボードの准教授欄に書き込んだのは院試に合格した学生だった。本当に学生時代の自分と比べたら誰も彼もしっかりしすぎだ。
「あ、先生、そういえば今日の午前中に外部資金管理チームのヨコイさんて方から電話ありましたよ、『またかけます』って」
「わかった、ありがと」
「ねぇ、先生、そういえばこいつ彼女と別れたんですよ。就職したら結婚しようって言ってたくせに院進したから」
ふいに一人の学生が下世話な方向に話題を振った。いくらしっかりしているといっても酒が入ればこんなもんだ。
「結婚して恋愛からイチ抜けできれば、ほかの趣味とか研究に割くリソース増えると思ったんですけどね」
彼女に振られたという男子学生はそう後を続けた。たしかに恋愛って面倒だよな。佳樹は恋人をつくらない作戦で恋愛から退いたが、なるほど、「さっさと結婚してしまう」という手もあったか。でも自分には無理だ。甘ったれだし、機嫌がすぐ顔に出るし、だいたい人恋しさに疲労が勝つ。
それでも両親が健在だった頃はまだ、結婚して安心させてやりたいなんて気持ちもあったが、佳樹からして遅くに生まれた一人っ子だ。父も母も孫の顔なんて期待しちゃいなかった。どうにもならない性欲だけ、そのときどきのもっとも簡便な方法で解消できればそれで十分だった。
「先生はずっと独身なんですか?女の子とっかえひっかえ?」
「院生の頃、海外の学会に彼女連れてったってほんとですか?」
「いちばん女の子可愛かったのどこの国ですか?」
「おまえら指導教員に向かってなんつー口の利き方だよ」
佳樹のその言葉に笑いが起きて、また次の話題が生まれる。いつもと変わらぬ研究室の日常だ。でも今日はやっぱり酔いの回りが早い。脳の奥が熱をもったようにぼーっとして、誰かが言った「また来週台風だって」という言葉には気づかなかった。
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