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2.マンホールの腐乱死体
2.マンホールの腐乱死体
若狭良一はABCビル内の最上階にある中華レストランで、眼下の景観を楽しみながら会社の仲間5人と宴会を楽しんでいた。しかし、明日は大阪出張があるので、早めに引き上げることにした。
「悪いな。明日出張なんだ!」
「お疲れさまです。気を付けてください」
同僚は若狭に盃を上げて見送った。
若狭はABCビルを出て、腕時計を見ると午後8時過ぎだった。これなら、午後10時には就寝できると安心して、富浜駅に向かって歩きだした。
その時、建設作業員の服を着た若者がうつむき加減で近づいてきた。
髪がボサボサで、近づくにしたがって下水のような強烈な異臭がした。
「タバコの火を貸してくれ」
若者はボソボソと小声で言った。
「何だって?」若狭は異臭で顔をしかめるのを堪えながら言った。
「タバコの火を貸してくれ」
若者は顔を上げて若狭を睨みつけた。
「すまない。タバコは吸わないんだ」
若狭は、若者の鋭い目に怯えて、若者にかかわりたくなかったので丁寧に断った。
「そうか、ならいいや」
若者は小さく頷いてそのまま通り過ぎた。
若狭は若者が通り過ぎてから、指にタバコを挟んでいないことに気づいた。
「なぜタバコの火を貸してくれって言ったんだ?」
若狭は振り返ったが、すでに若者の姿はなかった。
だが、若狭の違和感はそれだけではなかった。
街に人影がいなくなっていたのだ。ビルを出た時には、確かに肌で街の賑わいを感じていた。男女が目の前を歩いていたはずだ。
午後8時に人影が消えるなんて考えられない。酔っているのかも知れないと思った。腕時計を耳に当ててみたが秒針の音に異常はなかった。
ではなぜ人がいないのか? 若狭は立ち止まり、再び振り返って中華レストランのある高層ビルを見た。
すると、高層ビルのある景色がスクリーンに映しだされた写真のように立体感がなくなっている。しかも、そのスクリーンが津波のように迫ってきて自分を飲み込もうとした。
若狭は慌てて両手で眼を擦った。やっぱり悪酔いした? ビール2杯しか飲んでない。頭が変になったのか? 気づかないうちに頭を打ったのか。脳内出血? 耳の三半規管の異常?
その時、若狭は足首が何かに掴まれたような感覚に襲われた。
爪を立てられて、その爪が足首に食い込んでいるような強烈な痛みがはしった。
「痛イー」若狭は声を上げて、足元を見た。
マンホールから手が伸びて両足をつかんでいた。
「ウエ-!」
若狭の顔が恐怖で崩れた。
マンホール点検員たちが点検中にマンホールの底で男性が汚水に顔を突っ込んだ姿で倒れているのを発見した。
マンホール点検員の班長から通報を受けた警察官、刑事、鑑識が駆け付けた。
マンホールのある交差点は規制線が張られ、マンホールの周辺はブルーシートが張られた。
現場となったマンホールは富浜駅に通じるメイン道路の交差点の脇にあった。駅まで徒歩5分の距離で午後2時過ぎで交通量も多く、両側の歩道は遠巻きに野次馬であふれた。
「通行の邪魔になります。立ち止まらないでください」
制服の警察官が両手で促すように野次馬を解散させようとしていた。
スリムな肢体を紺のパンツスーツで包み、ポニーテールをした青木美子が、車を降りると両手に白手袋をして、野次馬の間をぬってマンホールに走った。
「ここからは先は入れませんよ!」
警察官が美子を静止しようとした。
「ご苦労様。警視庁捜査一課の青木です」
美子は警察手帳を制服の警察官に見せると規制線をくぐった。
マンホールの傍に富浜署の須藤課長と、中山刑事がいた。
「遅れてすいません。須藤課長、中山刑事」
美子は、須藤課長と中山刑事に挨拶した。
「一課がでしゃばる事件かわからんぞ」
須藤課長が鋭い視線で美子に言った。
美子は中山刑事と一緒に第一発見者のマンホール点検員たちから事情聴取を行った。
点検員たちの話では、点検員三人と交通警護の警備員二人で午前十時から下水マンホールの点検をしていた。
作業は下水マンホールの蓋がメタン等で腐食していないか、計測と写真で点検するというものだった。
五人は昼食を済ませ、午後の点検をしようとこの場所に来てマンホールの蓋を開け、底に男性がうつ伏せで倒れていたのを発見したという事だった。
美子は、マンホールの蓋にこじ開けられたような跡はなかったか質問したが、点検員は蓋を開けるまで異常はなかったと答えた。
美子は聞き込みを終えると、マンホール前で屈み内部を見ようとした。
マンホールの内部から汚水の臭いと遺体の腐敗臭が美子の鼻を刺激した。
マンホールの直径は七十五センチ位、深さ約十メートル。マンホールの内側は円錐のように底に向かって広くなり、底の広さは二メートル位だ。底の近くに七十センチの管路(管渠)がある。その管路から汚水が流れこんで底には黒ずんだ二十センチ程の汚水が溜まっている。
そのマンホールの底に、紺のスーツを着た男性が汚水の中に顔を沈め、うつ伏せ状態で倒れていた。
「須藤課長! 中を見たいわ」
「鑑識は終わってるが、もうすぐ該者を引き上げるから、早くしてくれよ」
「青木刑事、そこに長靴があるから使ってください」
中山刑事が言った。
「ありがとう」
美子は長靴をはくとがマンホールに入った。閉ざされた闇の世界は静寂が支配している。美子は現場に何度も立ち会ってきたが、いつも刑事や鑑識たちが周囲にいて孤独や不安を感じたことはなかった。
いま狭い空間には美子と被害者だけがいる。何とか無念で亡くなった死者の声を聴かなければならないと思った。
「顔が見たいから動かすわよ。鑑識に確認して」
マンホールの上で覗き込んでいる中山刑事に言った。
中山刑事は鑑識の連中に確認すると「OK」のサインを送った。
美子が男性の体を起した。
その瞬間、美子は「あ!」と声を漏らし、顔が蒼白になった。若い男性の顔は顎が外れたように歪んで怯えた表情で、両目は大きく見開き白濁していた。
「大丈夫ですか?」
中山刑事がマンホールの外から言った。
「大丈夫よ」
美子は呼吸を整えると、ペンライトを取り出して、マンホールの壁を照らした。
もし被害者が落下したのなら、壁には衝突痕があるはずだが、壁にぶつかった様子はない。それなら、殺害してから被害者を犯人がマンホールの底に運んだのか?
マンホールの直径が75cmぐらいなので担いで降りることは不可能だ。犯人が二人だとして、被害者をロープで括り降ろしたのか? しかし、背広にロープを縛ったような跡はない。では被害者が死後硬直した状態で、犯人が二人で降ろしたのか?
もし、被害者が自殺するつもりで中に入ったとすると、なぜマンホールの蓋に鍵がかかっていたのか。しかも、点検員の話だと特殊な鍵なので自分でマンホールの中からかけることはできないと言っていた。
それに恐怖で歪んだ顔は? 何を見たのだろう?
白濁した目は?
美子の疑問は深まるばかりで、眉間に皺を寄せた。
美子はマンホールを上がった。
「どうだ? 青木何か分かったか?」
須藤課長は口元を曲げて言った。どうせなにもわからないだろうという顔つきだ。
美子はその声に頭を垂れた。
「中山刑事、長靴ありがとう」
中山刑事はその声に頷いた。
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