かりかり

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かりかり

 親父の財布から出てきたのは千円札一枚と運転免許証と写真。  小銭はズボンのポケットにそのまま入れてたから、落としてきたのだろう。一枚の硬貨も見当たらなかった。  写真は三十年近く前のもので、色褪せていたし、角も千切れてた。四つ折りにして財布の中に入れてたせいで、真ん中に穴もあいていた。  写っていたのは、困り顔でカメラマンの親父を見つめる今は亡き、初代チビ。チビというほど小さくないが、犬と言えばチビかポチだろとテキトーに名付けられた。  チビのご飯皿を引き寄せて、かりかりのドックフードを口に入れようとしているのは赤ん坊の俺。ハイハイを覚えたばかりの頃で、丸々としている。  まだ若いお袋が慌てたようすで止めようとしているけれど、間に合ったのかどうか。のんきに写真なんて撮ってないで止めてよと、きっとお袋にこっぴどく叱られたはずだ。  畳の上には酒瓶が転がっていた。親父は酒好き、大酒飲みだった。この日も仕事が休みだからと朝から飲んでいたのだろう。  この写真を撮ったとき。親父は俺たちのようすを見て、けらけらと笑っていたらしい。  それが現像して何日か経った日の朝、真っ青な顔をして起きてきた。お袋が何を聞いても、無言のまま。朝飯を食うとすぐに神妙な面持ちでカメラ屋に行って、焼き増してきて。以来、お守りとして持ち歩くようになった。  趣味は酒と豪語するほど酒好きだった親父が、酒を控えるようになったのも、この頃だ。  親父はバスの運転手だった。  それまでは次の日が仕事でも晩酌して、お袋に怒鳴られるまで飲んでいたらしいが、写真をお守りにするようになってからはピタリと止めた。出勤日の前々日。遅くまで親戚や友人と飲んでいても、日付が変わった瞬間。酒の入ったグラスを置いて、ソフトドリンクに切り替えた。  ――まだ二十四時間以上、あるじゃないか。昼まで飲んでたって、次の日の朝には抜けてるって。  周囲に酒をすすめられても、親父は頑として飲もうとしなかった。あんまりしつこくすすめられて、ブチ切れて。取っ組み合いの喧嘩をしたこともあったくらいだ。  それで腕の骨を折ってりゃ、世話ない。  頑固な性格は運転にも表れていた。  仕事でバスを運転するときだけじゃなく、家族で出かけたときも、律儀に道路交通法を守っていた。どっかの車があおってこようとも、全く動じない。急ブレーキ、急発進もしない優良ドライバーだ。  親父の運転にすっかり慣らされてしまった俺は、おかげで他の人の運転だと盛大に車酔いするようになった。  ――昔は、結構、乱暴な運転だったんだけどね。まぁ、いいことだけれど。どういう心境の変化なんだか。  お袋の疑問が解消されたのは、親父の定年祝いに親戚も集めて酒盛りをしたときだった。  親父同様、酒が大好きな親戚連中と散々に飲んで。顔を真っ赤にして、べろんべろんになった親父が、例の写真を見せながら話していたらしい。  ――あいつが赤ん坊の頃にさ、夢で見たんだよ。    免停食らって。失業して。金もなくなって。腹すかしたあいつがひもじくなって、チビのかりかり食ってんの。あれはだめだ。夢でもだめだわ。  お袋から話を聞いた当時も、馬鹿じゃねえのって思ったけどさ。今、この瞬間も馬鹿じゃねえのって思ってるよ。  酒飲むのが唯一の趣味だったんだろ?  だったらバスの運転手なんて、やめちまえばよかったんだよ。免停食らったって。バスの運転手、辞めたって。きっと三人で暮らしいけるくらいの稼ぎの仕事、親父ならすぐに見つかったよ。たぶん、きっと、チビのかりかり食ってても、そこそこでかくなったよ、俺。  大体、俺と同じで仕事なんか大嫌いで。会社勤めなんかクソ食らえなくせに。何、定年まできっちり勤め上げてんだよ。何、嘱託(しょくたく)でまで働いてんだよ。  確かに社会人に成り立てで稼ぎも大してなかったけどさ。三人で暮らしていけるくらいには、俺だって稼げてたよ。  最悪、チビのかりかりでも食ってりゃよかっただろ。  ようやく六十五才になって嘱託勤務も最終日で。帰ってきたらぶっ倒れるほど酒飲んでやるって言いながら、今朝、出てったのはどこのクソ親父だよ。  散々に酒飲むのを我慢して。今夜から酒浴びるほど飲んでやるってにやにや顔だった奴が、何、酒浴びるほど飲んで運転するような馬鹿に引かれて死んでだよ。白い顔、してんじゃねえよ。病院の霊安室になんて寄り道してんじゃねえよ。  嘱託勤務なんてやめちまえよ。バスの運転手なんてやめちまえよ。こんな写真、破り捨てちまえよ。  かりかり食ってでも大きくなってやるからさ。  だから、親父。家、帰って。お袋に怒鳴られるくらい大量に買い込んである酒、全部、飲んで。三代目チビと、お袋と、親父の写真でも撮らせろよ。  今度は俺が、それをお守りにするからさ――。
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