第弐章 三

1/1
11人が本棚に入れています
本棚に追加
/50ページ

第弐章 三

月見の宴までいよいよ日も少なくなってきた。 主だった公卿の殆どが時平に声を掛けられていたので、長月に入ってからというもの、宮中では宴の趣向や被け物などの話題で華やいでいた。 しかし。 「――何故一向に当たらぬのでしょうか…」 忠平の弓から放たれた矢があられもない方向に消えていったのを見届けると、経基は肩を落とした。 穏子が慰めるように、 「でも忠平兄。随分遠くまで飛ぶようになったわ。よく励んだと思う」 晩秋の小一条邸の庭の草木は、終わりかけの紅葉が唯一の彩りであった。 その枝に掛けた的には、この一刻の修練の間に未だ一本の矢も刺さっていない。 この二月付きっきりで指導した経基は、不服な面持ちをもう隠そうともしない。 「四の君は今少し兄君に厳しくされるべきだと思いますよ」 時平に狩衣姿が知れてしまってからというもの、穏子は気軽に忠平の小一条邸へ出入りしていた。 時平公認となったお蔭で忠平が弓を引くときは桐丸が知らせに来るようになったからである。 『姫様の「公達ごっこ」にはもう飽きれ果てますわ』 そう言いながらも唐櫃の中の直衣狩衣を選んで着せるのが、送り出す遠江には楽しいらしい。 時平から『貴女にはこちらが良いだろう』と一筆添えられて特にと冬の直衣と指貫の一揃えを贈られた際にも、 「三の君は宴の為に葡萄(えび)襲の「女」装束を戴いたそうですわ。まったく大殿までこれだから…」 と言いつつも、雪襲の煌びやかな直衣に穏子が袖を通す姿を嬉しそうに拝していた。 その目を引く艶やかな直衣姿で、本日も穏子は忠平の弓引きを見物しているのである。 「そうは仰いますがね、四の君。二月で様になったのは射姿だけというのは、教授を引き受けた私の面目が立ちません」 嫌々ながら始めた弓の練習が近頃は楽しくさえ思えてきた忠平は、少しも誉めてくれない経基を無視して、 「あと十日で一本でも当ってくれれば、私はもう満足です」 「――全て当てると仰ったから、その意気込みを買って私も御付き合いしたのですがね…」 報われずに終わりそうな経基は愚痴を零した。 「何。私が当てられない分、御前が補ってくれるから良いだろう、経基」 時平は賭弓の引き手として経基も招いていた。
/50ページ

最初のコメントを投稿しよう!