序章

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その有様を知って居ながら、時平が次々と新手の女君に手を出している事に忠平は閉口していた。 穏やかな母が父の恋人に非道い仕打ちをして居たというのも驚いたが、自分は絶対に兄のようになって恨みは買うまいと、堅く心に誓って居る程であった。 忠平は、異母妹に会うためにこうして公務を休んで大津までやって来た。 山科を経て、叡山を左手に見ながら、両側に梢々と杉が生い茂る昇り坂の街道を進むと、坂の頂上から視界が開けた。 「これは。見晴らしが良い。ほらご覧、桐丸――」 辿り着いたのは逢坂の関とその昔呼ばれていた所である。 今は関所の面影などなく、好んで恋歌の歌句に用いられる名所にしては、辺りは風に凪ぐ草の音が聞こえるばかりの寂しい所であったが、 忠平が感嘆の声を上げたのは、行く手のなだらかな下り坂の果てに見える近江の海であった。傾きかけた未の刻の日の光に湖面が眩しく輝いて居る。 ささなみの 志賀の辛崎 幸くあれど 大宮人の 船待ちかねつ 忠平は、今は腰の痛みも恨み言も忘れて機嫌良く万葉の古歌を詠じ始めている。 ゆっくりと下る坂道は細く、しかし途切れること無く真っ直に続いていた。
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