第壱章 一

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第壱章 一

優雅に眺めを楽しみながら峠を下った御蔭で、湖の畔に達する頃には既に東の空は蒼く、西の空には沈み行こうとする夕日の端が辛うじて赤紫色の空に見えた頃合いだった。 湖面では、飛び交う千鳥の影が黒く揺らいでいる。 淡海の海 夕鳥千鳥 汝が鳴けば 情もしのに 古おもほゆ と詠んだのは、唐崎の港から漕ぎ出した船上における柿本人麻呂である。 近江の国名は「淡海(おうみ)」という、淡水湖である琵琶湖を意味する語からきているが、「遠江(とおとうみ)」に対して、都から近い湖のある国として、今は「近江」の字を当てている。 場に応じた古歌は絶え間なく頭の中を巡る忠平であったが、道に迷ったか、進んでも一向に目的の山荘には辿り着かなかった。 空の蒼が少しづつ西まで進んできて、やっと事態が深刻であることに気付く。 最悪の場合、この人里知れぬ山奥で野宿ということになるかもしれない。 「やはり経基に供を頼むべきだった」 頼みの友人経基王は暇を見ては馬で遠駆けをしていて、屋敷を尋ねても数日後まで留守の事があった。 温室育ちで武芸とは縁のない忠平は遠駆けなどできないし、まして屋根の無い所で寝るなど考えた事もなかった。 とにかく、もっと端近くに寄って見ようものなら、踏み外して淡海の海の藻屑となることは必至である。 それだけは避けようと、忠平は山並みに沿って馬を歩ませた。 「あちらへ行こう。二人とも海に沈んでしまいかねない」 「でも忠平さま。杉が月を遮って道は暗い様です。海沿いのほうが宜しいかと」 しかし忠平は山に馬の鼻を向けてしまった。これでは付いて行かない訳には行かぬ。桐丸も牛を追い立てて、後に続いた。 「桐丸、松明(まつ)を点けて」 杉ばかりであった道が、花の終わった榊や萩などの秋草が雑然と茂る道へと変わって来る。
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