第弐章 二

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何が起きたのか俄かに判断できず、小刀を握り締めたままでいる穏子を見上げて、 「こちらは左大臣の妹御、三の君であらせられる。無体な真似をすると、ただでは済まぬぞ!」 東の対から上がった侍従の声に、穏子の局に居た時平達が腰を上げた。 遠江は絢子には悪いとは思ったが、とりあえず穏子の事はお預けだと胸を撫で下ろした。 「仲平」 「はい兄上。――危ないからね、貴女たちはここに控えていなさい」 時平と仲平は出仕からの帰りだったので、腰には飾り太刀を提げていた。 飾り立てられているといっても鞘の内の大刀は鍛えられているから十分実用に耐えうる。 「遠江。北の対の前に随身が控えている。すぐに東の対に参上するように伝えよ」 大臣など公卿以上の身分の高い者には、近衛府から『随身』と呼ばれる護衛用の舎人が与えられていて。 公的な警護要員ではあるが、本人に親しく近くに仕えることから、私用の家人と同様に使われることが多かった。 「…はい!」 時平達の反応は素早かった。 乱れた足音があちこちから東対屋に向かう。 踏み鳴らす床の音を耳にして漸く我に返った穏子は、身を隠す場所を見探す猶予もなく、房を取り囲まれてしまった。 「三の君、御無事ですか!」 五尺の太刀を狭い室内で抜くのを時平達はためらった。手出しはできないが、怯んだ素振りは見せない。 「すぐに出て来ぬと、汝が為にならぬぞ」 『虐い扱いだわ。夜盗がどうしたらこんな目立つ重ねの直衣を着てるっていうの?』 不平ばかりが喉元まで出かけるけれど。 いつまでも局に留まることもできず、漸く観念して局の外に出た。 時平は穏子の姿を見るなり意外そうに、 「この様な真似をする輩には見えぬが、いずれの家中の者だ?」 仲平は曲者に対しても穏やかに話しかける。 「大臣の問いに答えなさい。悪いようにはしないよ」 局から漏れ出てくる灯台の光と月明かりだけでは、一目見て分かる筈の血縁者とは気付かないらしい。 穏子は頭から悪者と決めつけられて不満だったけれど、堪えて箕子縁に座を据えると、見守っている時平達に向かい丁寧に口上を述べ始めた。 「この度姉絢子の養生の件御聞き入れ頂き、御礼申し上げます。何より御挨拶の遅れた事、どうか御赦し下さいませ」 侍従を振り切って、絢子が格子戸を開いて現れた。大きな袿の袖で穏子の顔を隠すようにして、 「あにうえさま。御叱りはわたくしが…」 と庇うけれど、穏子はその手をとどめた。 「いいのよ姉上。兄上様方――初めて御目もじいたします。私が御手紙を差し上げた、穏子です」 鳥帽子を取って、頭を左右に振ると。 緩く結んでいた紐が解け、黒髪が扇の様に広がって衣の背をさらりと流れ落ちる。
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