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序章
右近中将藤原忠平は、大津に向かう馬の上に揺られながら、大きくひとつ伸びをした。
「忠平さま、お疲れならばひと息つきましょう」
馬の後ろから主のない空の牛車に寄り添い供をしてきた牛飼童の桐丸は、初めのうちこそ滅多に出ない洛外の景色をしきりに感嘆しながら付いて来ていたけれど、そろそろこの景色にも飽きてきたのであろう。
今や声には旅が始まった頃の精彩はすっかり失せていた。
「いま少し堪えなさい。この関を越えれば山荘は近いはずだから」
忠平も、その昔天智帝が開いた大津の廃都に想いを馳せたかった。
しかし、長い刻の間山道を馬の背に揺られて腰の痛みを堪えるのに必死で、それどころではなかったのだ。
「――兄上が御みずから御出向きになれば良いのに…」
口をついて出るのは恨みごとばかり。
『御前ひとり居らずとも、右近衛府が止まってしまう訳が無かろう』
長兄の左大臣藤原時平は口の右端を上げて笑いながら、忠平を送り出した。
真のことなので、忠平には言い返す術もない。
友の滝口惣監源経基も、滝口の陣に来る度情け無い愚痴を零す忠平に、
『全く左大臣殿の仰せの通り。まあ、宮中の警備は私達に任せて安心して行っていらっしゃい』
と、含み笑いして友達甲斐の無い口振りで言うのではあったが、こちらは今日は朝早くから、わざわざ羅城門まで見送りに来てくれて居た。
忠平は此処大津に、父の前関白藤原基経が生前に残した小さな山荘に住む人を尋ねてやって来た。
別荘と聞いて居るが、元は尼寺という事である。そのような地に如何な要件があるのかと兄時平に訊ねると、
「父上が其処に賎の女を住まわせて居たのだ。今は私達の妹姫が二人居る――」
忠平が十二の歳に亡くなった父は、腹違いの妹の事など話したことは無かった。
「――無理も無い。母上が、都から追い出してしまわれたそうだ」
兄の時平にも数多くの妻や恋人が居てその寵の争いには熾烈なものがあると聞いて居る。
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