第2話 『六使徒』ふたたび

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第2話 『六使徒』ふたたび

「……ひどいな、これは」  覚醒するなり、アレシュはうめくように言った。  さっきまで見ていた夢は、昨晩の遊びの続きだったような気がする。  美しいものだけが満ちた、秘密のサロン。毛足の長い絨毯は紳士淑女の足音を密やかに包みこみ、重い垂れ布の裏ではしかめつらしい顔をした楽団が管弦楽を奏でている。  ゆらめくオイルランプの明かりを頼りに囁き会う男女、中でも一番の人だかりの中にいるのが、アレシュ・フォン・ヴェツェラだ。しなやかな紳士服に包まれた肘を革の椅子の肘掛けに置き、幾つも指輪をした繊細な指で、これまた繊細な顎を捧げて辺りを見やる。  その華美な装飾品じみた顔で見つめられると、周囲の人々は老若男女を問わず頬を赤らめ、どこか危険な美酒を汲むような気持ちで彼の周りに集まり、膝をつき、しなだれかかって、言葉ひとつ、視線ひとつでも得ようと必死になるのである。  昨晩は何から何まで素敵な夜だったし、今朝方の夢もまったく醒めて欲しくなかったのに――と思った瞬間、神経を切り裂くような音がして、アレシュは寝台の上に飛び起きた。 「ハナ! 僕の館の窓硝子で巨大猫の大家族が爪を研いでないか、今すぐ調べてきてくれないか!? ……あれ……?」  思い切り怒鳴りつけてから、アレシュは改めて周囲を見渡す。  アレシュの寝室はいつもどおり雑然としていた。  趣味のいいものが集まってはいるのだが、全体的にものが多すぎる。ニクヅク色の絨毯の上には本が積み上げられ、地球儀を腹に抱えたウミガメが支える大理石の円卓には宝石箱が開いたままで転がっており、芸術品じみた家具から零れだしたありとあらゆる種類の装飾品が、窓から差しこむ薄赤い光で鈍く光っているのが見える。  そうしてそれらの上にはさらに脱ぎ散らかされた衣装が引っかかり、わずかに残った隙間には花やらリボンのかかったままの箱がねじこまれ、うずたかく積み上げられていた。 「……このへんの箱は知らないな。新しく届いた贈り物ってやつか? 最近やたらと多いけど、一体何がどうして――いや、それより彼女だ。……いつの間に帰っちゃったんだろ」  いささか悲しくつぶやいて、アレシュは自分の傍らを見やる。天蓋付きの寝台の上には、昨晩一緒にサロンから抜けて帰ってきた女の優しい体臭と香水の残り香が香っていたが、本人の姿は影も形もありはしなかった。 「また、ふられたのか……」  そう思うと何もかも放り出して再び眠りたくなってきてしまったが、そこへ再び、階下から埃っぽい空気をつんざく凄まじい異音が鳴り響く。  鼓膜を引き破るような高音に、アレシュは今度こそ寝台から飛び降りた。 「ハナ! 聞いてるか、ハナ!」  アレシュは目の醒めるような水色の絹で作った東方趣味のガウンを乱暴に身体に縛りつけ、部屋の扉を押し開けて叫ぶ。  屋敷の廊下にはまだまだ美しい紙の箱やら花束やらがあふれていたが、その真ん中にひときわ奇っ怪なものがあった。  すなわち、すり切れた毛布にくるまって転がっている人物と、野戦用の台所用具一式。  一瞬でそれが誰の仕業か判断したアレシュは、転がっている人物の頭を容赦なく踏みつけようとした。  が、相手は無駄に素早く転がって足を避け、毛布にくるまったまま鋭い瞳でアレシュを見上げる。 「やっと目が醒めたようだな、アレシュ。しかし、貴様の兄貴分をうっかり踏みつけるほどに寝ぼけているようでは、この街では長くは生きていけん――」 「おーい、ハナ! どうして僕の部屋の前にゴミがあるんだ! 今日の嫌がらせは朝から冴えすぎだぞ!」 「貴様も朝から素直ではないな、俺と貴様の仲ではないか。そもそも、昨日までの俺のねぐらが消滅してしまってな。百塔街で野宿するのは自殺行為、宿に泊まるほどの金はなし、飲み歩くくらいなら寂しいお前に朝の挨拶でもしてやろうと、わざわざやってきたこの誠意を――」 「ハナ、僕の昨晩の恋人、ひょっとして君が追い出したのか? だとしたら追い出す相手を間違ってるよ。今からでも遅くない、是非ミランをゴミに出してくれ!」  追いすがってくる男、アレシュの『自称・兄貴』のミランを振り払うようにして、アレシュは廊下を小走りに抜けた。そのままサルーンへ続く下り階段に足をかけたところで、例のものすごい騒音が耳をつんざく。 「信じられない……一体これはどんな凶器だ! 僕の中の美が破壊される……取り返しがつかないことになりそうだ……!」  芸術的な歯並びの歯を思い切り食いしばり、アレシュは息も絶え絶えで訴えた。  一方ミランは眉ひとつ動かさず、アレシュの横を通り過ぎていく。 「凶器だと? ばかな! 多少つたないが、心温まるヴァイオリンではないか。あえて鈍器として使うなら、せめてチェロくらいの大きさが欲しい。  やあ、ハナさん! 素敵な演奏だったな! そしてみんなも元気そうで何より。ハナさんのヴァイオリンを聴きに来たのか?」 「みんなって、お客がいるのか……? お客がいるのにこんな音をまき散らしてたっていうのか? 大体ミラン、お前は下僕のくせに、どうして館の主人みたいな堂々っぷりなんだ……」  疲れ果てた声を絞り出し、滅多に磨かれない手すりにすがるようにしてアレシュが階段を降りていくと、そこには吹き抜けのサルーンが広がっていた。  すり切れた絨毯の上に雑然と並ぶ、上等ではあるが古びた椅子、寝椅子、長椅子、飾り棚に茶卓。埃かぶった場所には確かに客人たちの姿が見え、彼らに囲まれたサルーン中央にさっきからの騒音の元凶も見えた。  歳はせいぜい十歳くらいだろう。細い身体にメイド服をまとい、恐ろしく真剣な目でヴァイオリンを構えている、この館唯一の使用人、ハナだ。  彼女の弓が再びヴァイオリンの弦に触れそうになったのを見て、アレシュは椅子の間を突っ切りながら必死に叫んだ。 「ハナ! その凶器を止めろ! 僕の声が聞こえてないのか!」  滅多に怒らないアレシュの大声に、ハナは少し驚いたように顔を上げる。  しかしすぐにいつもの硬質な無表情に戻り、じっとアレシュを見つめて言った。 「それだけはしたなく叫ばれれば聞こえます、ご主人様。私の耳は、ご主人様の頭ほどには飾りではありませんので」 「そうか、それはよかった。僕の頭が美以外のことについてまったく働かないのは同意だが、君と言葉で交流できなくなったら、この館のお客にお茶を出す人間がいなくなる。人間……というのが正確な表現かどうかは、別としてね」  わずかに引きつった笑顔で言いながら、アレシュは途中で言葉を濁した。  その原因はハナの容姿を見ればすぐわかる。  彼女は他のところはどこからどう見ても人間なのだが、きちんと結った髪の両側で美しい渦を巻いている角だけが、山羊か何かのそれにしか見えない。  多種の生物の特徴が入り交じって現れるのは魔界の住人の徴である。  ならば彼女も魔界からの旅人なのであろうとは、その唐突な出現時から知れている。  ところがアレシュは今まで、彼女の出生について問いただしたことがなかった。  なぜか、と訊かれれば、特に訊く必要なかったから、としか言いようがない。  そもそもこの百塔街はかつて大魔法使いの呪いを受けて堕ちた街。  全世界の呪われた者と器物が集まり、それらを封じる者が闊歩し、王を持たず、法を持たず、人間界でもっとも魔界に近い場所だ。  魔界の者が歩き回るのも珍しい光景ではなく、人間だとて誰しも訊かれたくない事情をかかえてやってくる。相手が特に自分に敵意を向けてくるわけでなければ、許して受け入れるのが百塔街の――少なくともアレシュのやり方だ。 (とはいえ、形ばかりでもメイドをやるなら、それなりに守るべき態度があるだろう)  アレシュは眉根を寄せたまま、サルーンに集っている客人たちのほうをこっそり見やる。  ミランも入れて三人の見知った客の前には、もちろんお茶ひとつありはしなかった。 「――ありえない……」  苦悩のうめきを上げるアレシュを見た客人たちは、それぞれ顔を合わせて視線を交わし、結局ひとりが音もなく立ち上がる。 「そう落ちこまれることもありますまい。我々のほうが予告もせずに勝手にお伺いしたのです。むしろ無礼はわたしたちのほう。お目覚めまで待たせていただこうと思ったのですが、結果としてあなたの眠りを妨げてしまったようですな。大変失礼いたしました」  低く深く歌うような声で言った漆黒の影はひょろりと長く、まるで夕方の道に伸びる影のよう。年中着こんだ漆黒の喪服の上に、生気とは一切無縁の白い老紳士の顔が載っかっている。  仮面のような笑みは見た者すべてに得体の知れない不快感を与えるものではあったが、アレシュはこんな彼の雰囲気にもずいぶん慣れた。 「おはよう、ルドヴィーク。こちらこそ気を遣わせたうえ、こんな格好で出てきて申し訳ないね。しかし――その、まさかとは思うけれど、君がハナにこの演奏を頼んだのかい?」  アレシュがいささかためらいがちに問いを投げると、ルドヴィークは仮面じみた笑顔のまま妙にゆっくり首を横に振った。 「いえいえ、あなたはいかなるときにも完璧に美しい。わたしがこちらへ来たのは別件だったのですが、ハナさんがヴァイオリンの練習をせねばならない、と真剣におっしゃるものですから。あなたが目覚めるまで、お相手を務めさせていただいていた次第です。  ……失礼ですが、彼女はいつもこのような、独創的な演奏を?」 「初めてだよ。そうじゃなきゃ、僕はとっくに睡眠不足で死んでる」  げっそりと言ったアレシュに、今度は少しばかり離れた場所から、甘い声がかかった。 「本当かしら。あなた、いったん寝入ると滅多なことじゃ起きないじゃない。つまんない女と眠れない夜を過ごした後には堂々と遅起きするし、昨日のあれで目が醒めなかったなんて! 鈍感にもほどがあるわ」 「……カルラ。鈍感な男は嫌い?」  アレシュが振り向きざまに声をかけると、十歩ほど向こうの寝椅子に優雅に寝そべるひとがかすかに笑った。  彼女の手が猫を呼ぶように手招いているのを見て、アレシュは美しい客人のほうへと歩み寄る。彼が無造作に彼女の長い黒髪を一筋すくって口づけると、彼女は白い頬をほんのわずかに紅潮させて囁いた。 「あなただけは許してあげてもいいわよ。ね、謝って」 「いきなりだね。許すって、何について? カルラ。僕が時に逆らわず、育ってしまったことについてかな」  アレシュがカルラの髪の毛を手にしたまま寝椅子の肘掛けに腰掛けると、カルラはわずかに身体を起こして熱心に主張した。 「違う! あなたは今だって筋肉つきすぎてないし、背も高すぎないし、ギリギリ、『あり』なの! あなたが謝るのは野放図な遊びっぷりについてよ。最近はいつもに増して遊び歩いてるみたいだし、さっきだってここへ来るなりつまんない女とすれ違ったし。私の気持ちもちょっとは考えてよね」  そう言ってむくれる少女らしさと女らしさのせめぎ合う美貌は優しく、甘やかで、隙のある頼りなさが絶妙に男心をくすぐってくるのだが、アレシュは彼女の実年齢を知っていた。 「もう千歳も越えたっていうのに、相変わらずほしがるひとだね。遊びのお誘いがあったら断らないのは、僕の唯一の誠実であり甲斐性だよ。最近ちょっとお誘いが多いのは本当だけど、ほら。今はこうして、君のことだけ考えている。君が何を感じて、何を見ているか。君の目に僕がどう映っているかが、一番気になる」  少し悪戯っぽく言って彼女の白い額にそうっとくちづける。魔女の額は陶器みたいに滑らかで、どことなく甘く感じた。 「……嘘つき」  やんわり潤んだ瞳で言われれば、このまま彼女と戯れていたいような気持ちにもなる。  が、多分そうはいかない事態の予感がした。 「嘘じゃないさ。本当に、嘘じゃない。だけど」  アレシュは赤い瞳に睫毛の影を落としてつぶやくと、のろりとカルラから身体を引き離す。 「――それで? この顔ぶれが集まったということは……あれなのか?」 「そう! すなわち、深淵の使徒の出番だ!」  甘く重い雰囲気を一気に吹き飛ばすミランの叫びを背後に聞いて、アレシュは軽く自分の頭を引っ掻いた。
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