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第4話 新聞記者ヤルミルという男
歳は三十も半ばほどなのだろうか?
シャツもタイも外套も、顔に引っかかった眼鏡でさえも、何もかも手入れが悪くてよれて歪んだままにしている男だ。見るからに不摂生で、無精髭に覆われた皮膚は妙に黄色い。
何をどうしたらこうも小汚くなれるんだろう、とアレシュが理解できないものを見る目でじっくり彼を観察しているうちに、男はすり足で近づいてきた。
彼はアレシュの華奢といってもいい肩を抱き、恋人みたいに耳元へ囁きかける。
「あらあら、ちょっと聞き捨てならないですねえ。なんでここで帰っちゃうのかな? 思わせぶりにしといて期待をあおろうって作戦ですか? だとしたって、もうちょっと餌を撒いてからじゃないと、見物人にはあんたたちが何をやってるかはわかりませんよ?
民衆ってのはね、永遠に賢くならないんです。与えられたものをがつがつ食って肥える豚なわけですよ。で、あたしらは餌を撒くほうだ。
あ、申し遅れました、あたしは、ヤルミル・フランシチェク。百塔街新聞社の記者です。連絡先は……どこやったかな。ほしきゃ後であげますわ。んね、六使徒のアレシュさん。もうちょっと、この穴についてわかったこと。教えてくれないかなあ?」
「……ミラン!! お前の管轄だろう、これは!」
記者、と聞いて、アレシュはすぐさまミランのほうを振り返る。
ところがヤルミルと名乗った男は、先回りするようにアレシュの顔をのぞきこんできた。
「おっと、ここはあんたと話させてくださいよ! あんた、六使徒の首領なわけでしょ?」
不躾にそこまで言って、ヤルミルは眼鏡の奥で瞳を潤ませた。だらけた笑みがゆがみ、粘りけを含んだ囁きがアレシュの耳を打つ。
「あんた……こう見るとほんとに美人さんですねえ。腹の底がむずむずします。異形の美っていうんですか? いいですねえ、男女両方に受ける。しかも自分がこれから街を救おうってのに、それを隠してワルぶるあたりもいい。二面性ってやつだ。
次の見出しは『六使徒、百塔街の危機に乗り出す!』『ヴェツェラ氏は解決への自信をにじませた!』に決定かな。今のうちにちょいと帖面に書いときましょうね、忘れるともったいないからね」
「……ヤルミル、僕は切実に気分が悪くなってきた」
「おやおや、ご病気ですか、そりゃいけない!」
ヤルミルは笑って言い、アレシュの帽子をつかんで引きはがした。
「な……」
アレシュが唖然としているうちに、ヤルミルはアレシュの額から髪をかきあげ、互いの額をくっつけた。
粗悪な煙草の匂いが鼻先で香り、アレシュは衝撃のあまり大いによろめく。
眼前に迫る不摂生な顔、度を超した不作法さ、そして悪臭!
(死ぬ)
すっと意識が遠のきかけ、大いによろめいたアレシュの身体を、すかさずミランが抱き留めた。
彼の腕は実に冷たくて不快なのだが、さすがのアレシュも今はおとなしく彼に抱かれる。ミランは不作法で二流だが、ヤルミルよりは大分まともな顔だ。
ミランはヤルミルに人さし指をつきつけ、勢いよく叫んだ。
「貴様、何を考えている!! こいつは確かに顔はいいが、それだけしかいいところのない駄目人間だぞ! あと、こう見えてもきっぱりはっきり男だから余計な期待は捨てろ!」
「あはは、こう見ても目は見えてますよお。あなたはミランさんですね? これからも百塔街新聞社は六使徒の活躍を応援してますんで。是非情報のほう、お願いしますねえ。今んとこあんたらのことはなんでもかんでも記事にしたげますからね。こんなの滅多にないですよ。そうそう、記事の挿絵にしますから、みなさん並んで! ぱぱっと素描しちゃいますよ、せっかく全員いるわけだし」
あまりにも強引なヤルミルの言いように、カルラとルドヴィークはちらと互いに視線を交わした。
サーシャは姿を隠したままだし、ハナも勘定台の陰から動かない。
アレシュはミランの腕に抱かれたまま、気絶してしまいたい欲望をどうにかねじふせて足を踏ん張ることにした。他の人物に任せたらすぐに血なまぐさいことになるのは明白だからだ。
ヤルミルはばかで汚いが、殺されるほどの悪人ではないかもしれない。
かすかな慈悲の心にすがって、アレシュは不快の固まりみたいなヤルミルの顔を見つめて告げた。
「――いいかい、ヤルミル。僕らは君たちの新聞を面白くするために存在しているわけじゃないし、六使徒は本当の街の危機の時にしか動くべきではない。記者なら記者らしく、本当にあったことを描写したまえ。この街には、書くべきことなんて山ほどあるだろう?」
「あらあら、アレシュさん。あなた、ひどく間違ってらっしゃる! あたしたちの新聞、何部売れてると思います? あたしがこっちの新聞社に入ったのはほんの数ヶ月前のことですけど、入社時と比べて今の部数、三倍ですわ、三倍。
あなたたちの活躍はもちろんすごいです、あたしにゃできない。でも、それをみんなが望むようにうまーく調理してやって差し出してるのは、あたしなんですよ。調理なしの真実なんざ、誰も見向きやしません」
「へえ。まるで、百塔街の住人を君たちが操っているとでも言いたげだね?」
「んふふ。みなまで言わせないでくださいよ。あんた最近、やけに注目されてるでしょ? 気持ちがよかったでしょうが。まだもうちょっといけますから、ここは是非、格好いいことでも言ってくださいよ。とろとろしてたらあっちの主張が通るかもしれませんよ?」
「あっちって……ああ……あっちか」
ヤルミルの叫びにアレシュはしぶしぶ大穴の対岸を見た。
そこにはさっきから結構な数の見物人が密集しており、少々場違いとも思える真っ白な装束をまとった男が澄んだ声を張り上げている。
「みなさん! これはこの罪深い街に神が下した鉄槌なのです! 神は言っておられます。『悔い改めよ』と。しかし、わたしは問いたい。わたしたちは、いかに改めるべきなのか? 善とは一体なんで、正しき道はどこにあるのでしょうか? それをみなさんに教え導くことができないわたしなど、一体なんの役に立つのでしょうか!? 正直わからないことだらけです!! 困った、何がどうしたら、こうなってしまったのでしょう!?」
「……あれってクレメンテよねえ?」
「例のクレメンテ司祭ですな」
「うむ、どこからどう見てもクレメンテだ」
カルラ、ルドヴィーク、ミランがぼそぼそ言うのを聞いて、アレシュはさも嫌そうにクレメンテの姿から視線をそらす。
「……最後まで見なかったふりをしたかった」
そんなアレシュの様子に、ヤルミルは彼の肩をゆさぶって言った。
「駄目でしょう、目をそらしちゃ! クレメンテは以前この街の浄化を試みたところを、六使徒のあんたがたたきのめしたんでしょ? それがあんなところでぴんぴんしてちゃ、あんたの実力に疑問が持たれかねません!」
「疑念くらいで事実は変わらない。僕は確かに彼をたたきのめしたし、今の彼は神の寵愛を失って、前みたいな奇跡の大盤振る舞いもできなくなってる。ただ――」
アレシュが言葉を切って様子をうかがうと、クレメンテを囲んだ百塔街の住人たちが、おもしろがって彼に色々と言葉を投げているのが聞こえてきた。
「役には立つぜ、司祭さま。明日の天気は?」
「晴れ、時々、三割の確率で雨が降るでしょう! 百塔街旧市街一帯では呪いの影響で微量の毒を含んだ雨となる可能性がありますのでお気をつけて!」
純白の司祭服に身を包んだクレメンテは、金髪をひらめかせて真摯な口調で言い放つ。
周りからは「おお」と感心と嘲笑じみた声があがり、矢継ぎ早に質問が続いた。
「洗濯物干せないのは困るわあ。明後日着ていきたい服があったんだけど」
「明後日なら間違いありませんが、どうしても明日干すならお昼前後に! ちなみにあなたに明後日幸運を呼ぶ服の色は白です!」
「そんなことまでわかるのか! じゃ、今、この街に俺のことを好いてる女って居る?」
「三人居ますが、うちひとりは愛憎がこじれて近日中にあなたを刺しに来る可能性があるでしょう。避ける方法はありませんので、とりあえず神に祈って下さい!」
クレメンテの力一杯の返答に、街の住人たちは互いに顔を見合わせ、呆れ、あるいは結構もりあがっているさらに質問を投げている様子だ。
――今からでも、すべてを見なかったことにできないだろうか。
切実な思いを胸に抱き、アレシュはさらに深く帽子をかぶり直す。
カルラは後ろでわずかに身を震わせた。
「うわあ……あいつ、顔の半分はアレだけど、肌とか髪とかはまだまだつやつやしてるわよ? 許せない……! しかもまだ、微妙に神託聞けてるし! 努力しないで美しい奴って、ほんとむかつく!」
「ふむ。彼にとってはああして、些細なことでも『ひとのために奉仕している』と実感できる状態がしあわせなのでしょうな。まあ、何か問題があれば排除いたしましょう」
ルドヴィークがさらっと言って、仕立てのよい手袋をした手で自分の胸あたりを撫でさする。かつて彼はそこに美しい少女人形を抱えていたものだが、今あるのは上等な上着の感触だけだろう。
人形はアレシュの力によって、魔界のものと入り交じってしまった。
アレシュは深く細いため息を吐くと、繊細な指を懐に入れて銀の煙草入れを取り出した。
(……もう、とっとと決着をつけよう。長々ここにいると、色んな意味で頭がおかしくなりそうだ)
ひっそりと心を決めていると、ヤルミルの嫌らしい声が耳に飛びこんでくる。
「どうです? あたしゃここは、アレシュさんがクレメンテさんをたたきのめして『僕らがこの穴の事件を解決する』って宣言するとこだと思うんですよお。劇的じゃないですか? 格好よく書いて差し上げますから、ここは是非ともあたしの言うこと聞いといたほうがいいです。一緒に面白いこと、しましょうや。ねえ。
あ、こりゃいい煙草ですねえ。一本失敬しますよ」
ヤルミルは言い、アレシュの煙草入れから紙巻きを一本取って燐寸を擦った。
アレシュは自分も一本くわえ、不意にヤルミルのタイをつかんで引き寄せる。
「あ?」
隙だらけのヤルミルは、そのまま大きくよろめいた。
アレシュにぶつかるぎりぎりのところで踏みとどまると、目の前にアレシュの毒々しいまでの美貌が広がった。
どこを見ても装飾品じみた美しさの、その顔。
一瞬、心臓に酷い圧迫感を感じ、ヤルミルは息を詰めた。
――不吉だ。
ただ、そう感じた。
最初から美しいとは思っていた。でも、今は何かが違う。信じられないほどきめ細やかな白い肌の、どこに視線を据えていいのかわからない。
逃げるようにヤルミルの視線がさまよっている間に、アレシュの長い睫毛が伏せられて、唇がきゅっと笑みの形に引き上げられる。
まるで仮面だ。
美しいだけの、ただそれだけの、なんの感情も伴わない笑いだ。
笑うアレシュの口元で煙草が揺れる。
その先が、ひそやかに近づいてくる。
近づいてくる。
そして、触れる。
ヤルミルの煙草の先に。
じじ、と、紙巻きの燃える匂いがする。アレシュはゆっくりと紫煙を吸いこみながら煙草に火を移すと、至近距離でヤルミルを見つめて、からめとるように笑った。
「ヤルミル。君はいくつかのことについて、大いに誤解しているようだ。
ひとつ。六使徒は、けして誰かの娯楽のために動いたりはしない。ふたつ。百塔街の住人は、君みたいなただの人間に操られるほど甘くない。みっつ。もしも僕がクレメンテよりお前を愛すると思うなら……お前はなーんにも見えていない、大ばかだよ」
そうしてふっと彼の顔に薫り高い紫煙を吹きかけ、アレシュは身を翻す。
アレシュの顔が視界から消えた瞬間、呪縛じみた美貌の効果も薄れて、ヤルミルは盛大に咳きこみながら叫んだ。
「あっ……あんた……ちょっと、待ってください! あたしはあんたのためを思って色々言ってあげてんですよ! いいですか、あたしにゃペンの力がある。怒らせたら勝手な記事を書きますよ? それこそ、あんたたちはクズのろくでなしだって書いたっていいんだ!!」
置いて行かれてなるものか、とばかりにヤルミルは叫ぶが、アレシュの姿はどんどん遠くなる。しなやかな背をヤルミルに向け、小さく笑って歩いて行く。
ヤルミルはまだアレシュの色香で朦朧としていたが、力の抜けた足をどうにか引きずって後を追った。よろめき、蹴躓きながら戸をくぐって石畳の上に出て、そこで大きく目を見開く。
彼の目に映るのは、赤い空。
そして――何かを求めて、彼の両腕が泳ぐ。
しかし彼は何をつかむこともできず、そのままその場に両膝をついた。
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