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第5話 アレシュの煙草と新たな大穴
アレシュたちは背後でヤルミルがくずおれた気配に気づくと、自然に足を止めて振り返る。
「なんだ、あいつは。道の真ん中でぶっ倒れて、何か具合でも悪いのか?」
ミランは顔をしかめてのんきなことを言うが、ルドヴィークはすべて承知顔でアレシュを見やる。
「具合が悪いのはもちろんでしょうが、原因はさっきの煙草の香りにあるようですな。あの香りは初めて嗅いだように思います。あんな男に新作をふるまうとは、ずいぶんと気前のよいことですな、アレシュ?」
「さすがルドヴィーク、気づいたね。正直、僕もこんなに効果が出るとは思ってなかったんだ。まだ試作段階だったからね」
アレシュは言い、改めて自分の煙草入れを開いた。
行儀よく並んでいる紙巻きの一本をつまみ出し、赤い瞳の側まで持ち上げる。そうして見ると、紙巻きにはほんの小さな金文字が印刷してあった。
文字が示す内容は、『白昼夢風味』。
「アレシュ・フォン・ヴェツェラ特製煙草第一番。
別に毒じゃあないよ。喫煙具に挟んで使えば多少うっとりするだけだけれど、まともに吸うと自分の心の奥底にしまいこまれたものが目の前に現れる。現実の光景よりも、心象風景が手前に出てくる煙草だ。絵の天才が吸えば目の前は絵画になるだろうし、感受性のとことん低い人間が吸えば特に何の変化も起こらない。刺激的な紳士、淑女のたしなみ――のはずなんだが。彼には一体、何が見えたんだろうね?」
アレシュは言い、穴の縁にぺたんと座りこんでぼんやりと首を振っているヤルミルを見やった。
彼はすっかり正気を失った様子で、周りから声をかけられても反応しない。このままでは遠からず、この街では生きていけなくなるだろう。
(とはいえ、助けてやる理由もないな)
能天気そうだったヤルミルがこんなふうになったのは想定外だが、特に情が湧くような相手でもなかった。
アレシュは優美に肩をすくめて煙草入れを閉じる。
「ふむ。誰がすっても同じ光景は見えない煙草、ですか。まるで短い人生のような一服ですな。これは是非とも自ら味わい、他の紳士淑女へ我々の手でお届けしたいものだ」
ルドヴィークが『葬儀屋』の顔に戻って瞳を静かに光らせたので、アレシュはうっすらと笑って銀の煙草入れごと彼へと差し出した。
「僕の願いも同じだよ。効果の詳細と後遺症についてはヤルミルが教えてくれるはずだ。死体になって、かもしれないけれど。ハナ――あれ、まだ扉、出してないのか。帰るって言っただろう?」
アレシュが言うと、ハナはびくりと肩を震わせたが、こちらを見はしなかった。
部屋の隅から穴のほうを見つめたまま、ぽつりと言う。
「帰る。……どこにですか?」
いきなりのつっけんどんな答えに、アレシュは少し虚を突かれた。
今までだったら、毒舌を吐きながらも子犬のように寄って来たところだというのに、彼女の視線は穴のほうへ固定されたままだ。
心ここにあらずと言った感じの小さな背中に、アレシュは大人げなくむっとした。
アレシュは杖を自分の薄い肩に載せ、ほんの少しだけ皮肉に告げる。
「帰ると言ったら僕の家、だと思ってたんだけど。ひょっとして、ハナはそろそろ故郷にでも帰りたいのか? 君は勝手に僕の家にやってきたわけだし、僕だって引き留めた覚えはない。帰るのは自由だぞ。君はあの扉を開けば、いつでも、どこへだって行けるんだろう?」
アレシュの言葉の何に反応したのか、ハナはやっとゆっくり振り返った。
こわばった白い無表情。
――いつものその顔が一瞬やけに大人びて見えた気がして、アレシュは思わず彼女の顔を見直す。
しかし改めて見るとハナはやっぱりいつものハナで、無表情なのも、瞳がやけに暗いのも、まったくいつものとおり。
彼女はしばらくじっとアレシュを見つめたかと思うと、いきなり瞳を険しくして叫んだ。
「ご主人様は歩くべきです! そうじゃないと身体がなまって、ぶよぶよ太りますから!」
「……ぶよ、ぶよ……?」
思ってもみなかった衝撃の台詞に、アレシュはその場で凍りつく。
「そうです、ぶよぶよになったらそのばかみたいにじゃらじゃらした服とか、全部着られないんですからね! 物好きな女の人からも見捨てられて、寂しい老後を送ることになるんですから! そうなったら私、ご主人様がそんな駄目な自分の姿をいつだって存分に眺められるよう、目の前に鏡とかかけて差し上げます!」
「いやああああ! ハナちゃんやめてえええ! 考えただけで死んじゃうからやめて! アレシュ、やっぱり年齢固定しよう! 今からでもいいから、しよう!」
カルラが叫んでいるのを聞きながら、アレシュは目の前が再びすうっとぼやけていくのを呆然と眺めていた。ぶよぶよの自分、という言葉が脳内で明確な像を結ぶ直前に、強烈な美意識がそれを拒否して気が遠くなったのである。
今度こそ気絶していいかな、と思ったとき、今度はルドヴィークの楽しげな声がした。
「アレシュ、もしも容貌変化が気になるとおっしゃるのでしたら、いつでもお申し付けください。男性とはいえ、人形化したあなたとなら一生共にいられるような気がいたしますからな」
「ルドヴィーク……冗談になってないよ……」
「冗談に聞こえましたか。それは心外」
ルドヴィークの声が心底心外そうだったので、アレシュは必死に目を開けた。
このままではまずい、と懸命に深呼吸していたとき。
何か、とても些細で大きな違和感が、全身を舐めた。
大気全体の肌触りがざらつき、常に漂うかすかな硫黄の臭いが一瞬だけむっと強くなる。アレシュは本能的に顔を上げた。
次の瞬間、靴底が大地の震えを感じ取る。
皆もその振動に気づいて空中へ視線を投げた、そのとき。
視界は大きくブレ、太鼓を強く叩いたような、どぉん、という音がびりびりと大気を震わせる。
「これは、まさか……」
ミランがつぶやくのを聞きながら、アレシュも真っ赤な瞳にそれを映して呆然としている。
ここから街路二本分くらい向こうに、二本の太い土煙が上がっていた。
続いて雷鳴のようなごろごろ、がらがらという響きが鼓膜を震わせたかと思うと、周囲の家々の間から砂を多量に含んだ風がざぁっとアレシュ立ちのほうへと吹きこんでくる。
見る間に砂は穴の中へと溜まり、周囲を灰色で埋め尽くす。
「これは昨晩と同じ現象――あちらで新たな穴が空いたのです! これは、神の怒り! 神の鉄槌が下されたのです!」
クレメンテがめげずに叫ぶのが聞こえる。
さっきまで笑いながら彼に相対していた人々も、こうなっては反論できないようだ。あまりのことに放心し、その場に突っ立っている。
ミランたちもしばらく彼らにならっていたが、やがて、ルドヴィークが改めてアレシュを見やり、丁寧に問いを投げた。
「さて、アレシュ。どうします? やはりこの事件、積極的に関わるのは気が進まれませんか」
アレシュは視線を煙から引きずり下ろすと、小さく咳きこんでから告げる。
「……いや、気が変わった。この穴の件に関しては、僕ら、六使徒がどうにかしよう」
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