第6話 調香師アレシュの金策

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第6話 調香師アレシュの金策

「いやあ、まさかこんな素晴らしいものが手に入るとは、思ってもみませんでした!」  二つ目、三つ目の穴が空いた、その翌々日。  浮かれた紳士の声がヴェツェラ邸のサルーンに響き、ほんのかすかな反響を産む。見るからに上等な紳士装束に身を固めて顔をうっすら赤くした中年紳士は、埃っぽい長椅子に浅く腰掛けて熱弁を振るっていた。 「何しろ、パルファン・ヴェツェラは定番の数種ですら天文学的な値段でしょう? もちろんわたしには多少のお支払いをできる金はあるが、この香水の購入には、ひとの紹介でも年単位で待たねばならぬという話でしたからねえ。わたしはせいぜい、一生のうちに手に入れば幸運、というくらいに思っていたのです!」 「実際そのとおりだ。しかもこれはあなたのために、アレシュ・フォン・ヴェツェラが手ずから特別の仕上げを施した逸品だぞ。普通ならぽんぽん売るものではないが、今回は特別奉仕というやつだ。あなたはここで一生ぶんの運を使い尽くしたと思ってもかまわん!」  紳士の前に座ってやたらと偉そうにうなずいたのは、いつもの粗末な冬用軍装のミランだ。手元の財布に入った金貨をせっせと数える彼をちらと見やって、紳士は少々下卑た色を瞳に宿す。 「何をおっしゃる。運など、この香水があればいくらでも変えられます。それで、その……」 「なんだ? 支払いは確認したから、帰っていいぞ」  ミランのぞんざいな言葉に、中年紳士は媚びた笑みを見せた。 「せっかくですので、一度ヴェツェラ氏ご本人にご挨拶できないものか、と思いまして。夜会で一度お会いしたときには、その美しさに酔ったようになってしまって、あまり何をお話したのか覚えていないのです」 「ん、そのくらいで終わっておくのがお互いにとって一番だ。奴は美形は美形だが、人間のクズには変わりない。こうして仕事をするようになったところだけは評価してもいいが、客の応対が上手いとも思えん。ここは顔も性格もそこそこの俺で我慢しておけ」 「やあ、そういう問題では、なくてですね……。ヴェツェラ氏と仲がよい、というのが、今の百塔街の紳士の高い社会的地位を示すわけでして……」  こんなことをわざわざ言わせるな、とばかりに紳士が笑みに苛立ちを混ぜたとき、玄関広間のほうからがらがらという馬車の車輪の音が響いてきた。  ほどなく、影のような黒衣の一団がサルーンへとなだれこんでくる。 「失礼しますぞ、アレシュ。野暮用で遅れて申し訳ない。お望みのものをここまで――おや、来客中でしたか。これは失礼をいたしました」  先頭のルドヴィークが虚ろな微笑みで一礼すると、中年紳士はその場に固まった。『六使徒』に葬儀屋の首領がいることは周知の事実だが、実際葬儀屋を目にして平然としていられる人間は百塔街でも数少ない。  紳士はちらちらとルドヴィークの喪章を見やり、情けなく声をうわずらせた。 「こ、これは、ザトペックさんですか! いえいえ、わたしはそろそろおいとまするところですから!」 「本当に? 遠慮などなさっているのではありますまいな。アレシュとわたしは友人なのです。友人の商売の邪魔をするなど、まったくわたしの本意ではない」  ずい、と前に出るルドヴィークの顔の、声の、気配の、なんとも言えない得体の知れなさ。紳士は生理的な嫌悪感でぶるりと震えた。 「邪魔だなどと、とんでもない! ミランさん、本当にありがとうございました。領収書は結構ですので、これにておいとまいたします!」  妙に甲高くなってしまった声で叫び、紳士はビロウドの小袋をひっつかんで足早に去っていく。  ルドヴィークは唇だけをにやにや笑いの形にして彼を見送った。 「やれやれ、本当にお邪魔だったようだ。とはいえ、こちらの受けた依頼も『至急』ということでしたからな」  彼のつぶやきに応えるように、葬儀屋の男たちがぞろぞろとサルーンに入りこんでくる。彼らは二人がかり、三人がかりで漆黒の棺桶を担いでおり、誰の許しも得ずにそれらをサルーンの隅に積み上げていった。 「これがすべて、アレシュの買い取ったものか」  ミランが灰色の瞳を鋭く光らせて言う。  ルドヴィークはにっこり笑ってミランに向き直った。 「そのとおりです。ただし、引き渡しは現金と引き替え、ということになりますが。無事に用意できましたかな?」 「無事と言えば無事だが、アレシュの奴、地下室に潜りっぱなしでさっぱり出て来ん。あれはそうとう根を詰めているぞ。非常事態なのだし、葬儀屋で多少立て替えはできんのか?」 「ふむ、立て替えですか。できないこともありませんが、少々利子の値が張りますぞ。具体的に言えば、一日死体一体ほどですが」 「はああああ!? 一日ひとり殺して来いだと? それはいくらなんでもぼりすぎだろうが! これだから葬儀屋というやつは!!」  ミランが血相を変えて叫んだとき、地を這うような陰鬱な声が割りこんでくる。 「――そこまでにしとけ、ミラン」 「アレシュ」  ミランが『心配』とでかでか書いた顔で振り返った先に、声の主の姿はなかった。何度きょろついてみても、やっぱりいない。  積み上がった棺桶の前から、アレシュの声だけが響いている。 「友人関係のためにも、金の話はしっかりしておくに限るよ。さっきの香水の代金は丸ごとルドヴィークに渡してもらって構わない。今回作った香水のレシピは父が葬儀屋に売却済みだから、僕が作って売るにしても使用料を払わなきゃ駄目なんだ。で、その後に出来た香水の金は、今日持ってきてもらった棺桶の中身代にあてる」 「金額も見ずに、何を適当なことを言っているのだ! 俺は棺桶の中身がなんなのかも知らんし、葬儀屋と交渉をする才能も皆無だ!! 金の話をしっかりするというのなら、日々の食費にも困る俺に任せるな! 無精せずにお前が来い、お前が!」  ミランが堂々と自分の欠点を怒鳴ると、辺りにはしばし沈黙が満ちた。  考えこむような間のあとに、ぎぃ、扉の軋む音が響く。  サルーンのあちこちにあしらわれている緑色の大理石の柱、その一本の陰から古ぼけた扉がにじみ出たかと思うと、中からのっそりとアレシュが姿を現した。  その姿はいつもの洒落者の彼を思うと、無残なくらいに荒れている。  うるさいくらいの装飾に満ちた上着は肩に引っかけたままだし、タイはかろうじて結んであるだけで歪み放題、シャツの袖は乱暴にまくられている。白い肌には艶がなく、目の下にはあからさまな隈まであった。  監禁でもされていたのか、という彼の姿にミランは顔をしかめ、ルドヴィークはなぜか慈悲深く微笑む。  ルドヴィークは漆黒の外套を翻してアレシュの眼前まで歩むと、長身の背をかがめて恭しくアレシュの手を取った。 「父上に続く偉大なる調香師の復活を、葬儀屋として心より祝福いたしますぞ。アレシュ・フォン・ヴェツェラ」 「ありがとう、ルドヴィーク。複雑きわまりない父さんのレシピには散々振り回されたけど、君たちがさばくための定番品も何種か出来たよ。その代金で、今回の計画に使う金は全部まかなえるかい?」  アレシュの言葉に、ルドヴィークは深く響く声で囁いた。 「おお、素晴らしいですな。おそらく金額的に問題はないと思われますが、念のため後で検品をさせてください。定番品は値崩れを起こさないように大切にさばかせていただきますし、レシピ使用料さえ払ってくださるのなら、あなたが個人的な付加価値をつけて香水を売るのももちろん結構」 「金と商売のことについての君のぶれなさは、信用してるよ。それと、美意識も」 「どれも等しく嬉しいお言葉ですな。我々もあなたのためなら少しくらい金銭の融通は利かせたいのですが、穴が空いてからあちこちが騒ぎ始めましてな。黙っていていただくのに、少々値が張っております」  あちこちってなんだろう、とアレシュはぼんやり考える。  考えるが、今は自分の担当することだけで頭がいっぱいだった。アレシュが適当にうなずいていると、ルドヴィークは貴婦人にするよう、アレシュの人さし指の爪に口づける。 「それにしても……あなたの才能が再び開花したことは、実に、実に喜ばしい。今のあなたはかけがえのない音楽の指揮者であり、創造主です。今後、限りない創造が花開くときが来るのが楽しみでなりません。新しいレシピが出来た際には必ず、真っ先にこのわたしにご連絡ください、若き巨匠(マイスター)」  厳かに言う彼はあくまでうやうやしく見えるけれど、万が一アレシュが新しいレシピを隠し持ちでもしたら、今口づけた指を一本ずつ切り離しにかかるに違いない、とアレシュは思う。  悪人どもにとって、しばしば友情と金の話はまったく別だ。  ルドヴィークは傷ついたアレシュのことも淡々と愛するだろうし、最悪、調香にアレシュの力ない四肢なんか要らないのだ――と思うと、さすがのアレシュでも寒気を覚えた。  そんなアレシュとルドヴィークの様子をどう見て何を感じたのか、不意にミランがルドヴィークとの間に割って入って不機嫌そうに腕を組む。そのまま何を言うでもないミランに、アレシュは目を細めた。 (相変わらずのばか)  声には出さずに囁き、アレシュはミランにだるい身体をもたせかける。  ミランはそれを許してたたずみ、ルドヴィークに警戒の視線を投げたままアレシュに訊いた。 「で、アレシュ。そろそろ俺にも貴様が何をやっているのか説明しろ。これだけぼろぼろになって金を稼いで葬儀屋から買ったのは、一体なんなのだ」 「ああ、まだ話してなかったっけ。僕がルドヴィークに頼んでたのはね、街に空いた三つの穴の中と、周辺にあったもの。その、すべてだよ」 「すべて?」  ミランがよくわからない顔をしているので、ルドヴィークがにこにこと口を出す。 「つまり、瓦礫の類から壊れた日用品の類まで全部、ということでして。それらがこちらの棺桶の中に収まっております」 「つまり……が、がらくたではないか! そんなもののために死ぬほど頑張って大枚はたいたのか、貴様は!」  呆気にとられて叫ぶミランに、アレシュは面倒くさそうなため息を吐いて首を横に振った。 「穴の空いた場所で何が起こってるかを調べるには、これが一番確実なんだよ。現場はすぐに荒らされちゃうし。あとはカルラが言ってたような、『魔界の扉』がある場所も、こっちで調査したりなんだりするために、できる限り金で借りきった。  何しろここは百塔街だ。いくら僕らが六使徒を名乗ってたって、他人の持ち物を勝手に持っていったり、勝手に誰かの土地に立ち入って調査をしていたら恨みを買う。力尽くより金を使うほうが紳士的だろうと思ったんだ」 「紳士的も何も……その借りきった場所とやら、一体、何カ所くらいあったのだ」  おそるおそる問われ、アレシュは少々視線をさまよわせる。 「大体、百二十くらいだっけかな? 穴の現地調査はカルラとサーシャがやってる。昨日はふたつめ、三つ目は今日。カルラがサーシャと一緒に向かってるはずさ。……段々不安になってきた」 「どうした、アレシュ。貴様がカルラ姉さんを心配するとは、どこか具合が悪いのか。むしろ悪くて当然の顔だが、いっそ少し寝たらどうだ」  ミランが珍しく真っ当ないたわりの言葉を投げると、アレシュは血の気の失せた顔で彼を見つめ、つぶやいた。 「いや、僕が心配なのはサーシャのほうだよ。カルラが是非サーシャをって言うから送り出したけど、大丈夫かな……死んでまで調査とかに借りだして、過重労働じゃないか? 帰ってきてから僕が怒られないかな? サーシャに嫌われたら、僕、生きていけないんだけど」 「貴様は――この期に及んで幽霊の心配か!! 本当に心配のしがいのない男だな!」  心底からのミランの罵倒もどこ吹く風、アレシュは深いため息を吐く。 「だってサーシャはただのなんだ、僕が心配してやらないと。カルラのことだって愛してるけど、彼女を心配するのは人生の無駄だよ。カルラはだって……カルラだよ?」
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