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第1話 心臓を掴まれる気持ちを教えてあげる
某月、某日。
魔界にあったものは、すべて我々の知っているものばかりだった。
ただ、組み合わせがむちゃくちゃなだけだ。
ひとつの要素で出来ているものは何もない。わたしは正気を保ってあそこから帰ってきた数少ない人間として、以下にいくつか魔界の生き物の姿を図示しようと思う。
――百塔街の呪術医療所にて、とある患者が書き残した記録。
本人の記述はそこで止まっており、魔界の生き物の図はない。
彼はその化け物のことを思い出した瞬間に、狂死したのである。
□■□
心臓をつかまれたような気持ち、なんて、気軽に言ってほしくない。
心臓をつかむためにはまずはあのやっかいな肋骨を開かなくちゃならないし、そのためには道具が必要だ。鋭利な刃は骨に当たって滑ってしまうから、初心者には小型のノコギリがお勧め。滑り止めのためにも、手袋はしたほうがいい。布製はどんなに手にぴったりしていても指の動きを鈍らせるから、材質は高級なめし革が一番だろう。
色はもちろん、白。
そう、つまり、今目の前にある、しなやかな手にはまってるみたいなやつが最高だ。
「ハナ。わたしの愛しい婚約者」
目の前の手袋をじっと見つめているうちに、甘い甘い声が頭上から降ってくる。
その声を聞いたとき、ハナはなぜかこれが夢だと気づいた。
気づいたのだが、目覚められない。その糸口はつかめない。
夢はそのあたりが面倒だ。これは自分だけの癖なんだろうか。それともみんなにとって、夢は自在にならないもの?
わからないままにハナは彼の袖をつかみ、身を寄せて、高級紳士服の胸に頬をすりつける。とびきり可愛く見えるように、微笑んで。
こういうときには特に思うけれど、顔の筋肉を上手く動かすのって難しい。瞳だってそうだ。勝手にそれていきそうな視線を乱暴にひっつかまえて、力任せ、ねじ曲げて、自分を抱いて膝に乗せているひとの顔を見上げる。
あっちこっち歪んで今にもはじけてしまいそうな顔で笑って、優しく囁く。
「――何?」
「何、だって? つれない台詞だね。もっと、たくさん可愛い声を聞かせて。一言ごとに、わたしを愛していると言って」
優しい声で彼は笑う。
戯れるみたいに白い手袋をはめた指が揺らめき、ハナの頬に触れてくる。そこから、つん、と刺すような冷気が浸みてきた。輪郭をなぞるみたいにすべる指。冷気は彼の指の先が触れたところすべてに広がっていく。
ハナは震える。
寒い。よく知ったこの冷たさはなかなか消えない類のもの。
浸みてくるんだ、どこまでも。
「愛している」
ぎこちなく唇を動かして囁いてみるけれど、この言葉もハナを温めない。
「私もだよ。愛している。愛している。愛してる。この世の何者よりも」
彼の言葉もハナを温めない。
彼がくれるのは冷気だけ。彼の冷気は死んでも身体に残る毒のよう。ハナの皮膚をかいくぐって入りこみ、血管と神経をくぐり抜け、逃げられないよう四肢の肉を堅くしていく。
ハナは知っている。あとちょっとで、この冷気は自分の心臓に届く。
彼の冷たい指そのものみたいに、ハナの心臓をぎゅっと握りこむ。
そうなったらおしまい。
ハナの世界はおしまい。
こうして考えるのも終わり。
二本の足で歩くのも終わり。
知るのも忘れるのも終わり。
軋む音を立てて扉が閉まって、ハナが舞台に立つ時間は終わり。
ハナはあなたのものになる。
でも、だからどうだっていうのだろう?
これは夢で、夢すらハナの自在にはならなくて、彼は笑う。笑う。
いつだって綺麗に笑う。
彼は笑って言う。
「ハナ。愛しのハナ。もしも君がどこかに攫われてしてしまったら、どんなところにいても、きっと迎えに行くからね」
□■□
ハナは小さな寝台の中で目を見開き、じっと暗い中空を見つめている。
幼いながらにかなり整った顔は完璧な無表情だ。ただ、ひたすらに白くこわばっている。
夢から醒めた青緑色の瞳に映るのは、さっきまでとは打って変わって暗い世界であった。斜めになった天井、石がむき出しの床、十歳くらいの外見年齢のハナがやっと身を横たえられるだけの大きさしかない寝台だけで、本当にいっぱいいっぱいの狭い部屋。
部屋と言うより、現実的には物置といった大きさだ。実際、ここは古びた館の地下。使用人区画にある階段の下の、ほんの小さな物置なのである。
どうしてわざわざこんなところに寝るんだ。他に寝るところは山ほどあるじゃないか――そんなふうに彼女の主人は呆れた声を出したけれど、ハナは自分でここを選んだ。
だって、狭いほうが落ち着くから。
ぎゅっと、誰かに抱きしめられているような気がするから。
(でも、もう、駄目なのかもしれない)
闇の中で目を見開いて、ハナは思う。
彼女はこんな暗さの中でも、辺りにあるものを大体視認している。古い垂れ布を縫い直して作った掛布を押しのけて寝台から降り、すりきれた羊毛織りの部屋履きに小さな足を突っこむ。
枕元の壁についた棚のオイルランプを取ろうかと指がさまよったが、すぐに諦めて寝台の横をすり抜けた。
今はオイルランプを取って火をつけるだけの手間に、たまらなくいらだってしまいそうだ。
それよりも、早く外へ出よう。
もう、この小さな寝室も安全ではない。
形ばかりのかんぬきを外して、軋む扉を開ける。
外は冷えた石の踊り場だ。暗いだけの空間にハナが手を伸べると、不意に闇からにじみ出るようにして古びた扉が出現する。
なんの前触れもなく、脈絡もなく、唐突に、踊り場の真ん中にたたずむ扉。
これを開ければ、ハナは行きたいところに行ける。
そういうことになっている。ハナは息苦しさに小さくあえいで、扉の取っ手に手をかけた。
そのとき、頭上の天井がかすかに軋む。
「……ご主人さま?」
ハナは囁き、白い無表情で天井を仰いだ。
今は真夜中もいいところだが、ハナの主人はいつだって夜遊びに余念がない。普通の人間が夜に出歩こうものなら、あっという間にどこかの路地裏に引きこまれて消えてしまうようなこの街でも、容赦なく着飾って闇の中へ足を踏み出す。
今夜もご多分に漏れず、どこかへ出かけて留守だったはずだ。
「今ごろ帰ってきたんですね。本当に、ご主人さまは、人間のクズで、ゴミで……」
いつもの悪口を吐く唇が震える。
扉の取っ手にかけた手に、勝手に力がこもる。
ハナは一刻も早くこの扉を開けて、主人のもとへ行きたかった。漆黒から生まれた偏執的な芸術作品みたいなあのひとにすがりたかった。
でも、その手はすぐにこわばる。
ハナの鋭い耳に、密やかに笑う女の声が聞こえてきたからだ。
――そうか。今日も女連れなんだ。
少し集中すれば、周囲で起こっているすべてがぎゅっと増幅されてハナのほうへ押し寄せてくる。衣擦れの音が聞こえる。なめらかな女の足にからまってはほどける、上等な絹の音。
続く靴音はハナの主人のものだ。
彼は小脇にステッキを挟んで、帽子をまぶかにかぶり、少し力をこめてれば折れてしまいそうな女の腰に手を回して玄関広間に入りこんだに違いない。
彼の長い睫毛がわずかに伏せられ、その陰から赤スグリのゼリーみたいな瞳が女の瞳を見るのがわかる。彼は女の耳元に物憂げに顔を寄せて、囁く――
「…………ばかだわ」
ぽつり、とつぶやいて、ハナは扉の取っ手から手を離した。
同時に、踊り場に出現していた扉はその輪郭をおぼろげにしていく。
くるりと身を翻して、ハナは自室の小さな扉を開け、部屋履きを乱暴に脱ぎ捨てた。そのまま粗末な寝台の上に戻って、なるべく小さくなろうとする。
骨の浮いた両膝をきちんとそろえて、細い腕でぎゅっと抱えこむ。
膝の上に冷えた頬を寄せると、今は結っていない栗色の髪が流れた。その隙間から、くるりと丸まった山羊の角と、白くて小さな耳が現れる。
ハナはそうして後はぴくりとも動かず、耳を澄ませた。
上の階の様子ではなく、館の周りの音を聞こうとした。
館の周り。古びた石畳の街の中に起こる様々。闇の中に響く足音と、悲鳴と、囁き会う声。いつもの暗黒の中に、異物が混じっていないかどうかを聞き続ける。
そうしてどれくらい耳を澄ませたことだろう。
急に、どおん、と鈍い音が館に押し寄せてきた。
石造りの館がわずかに震えるほどの、鈍く大きな音。
ハナは全身を震わせる。
これだけ大きな音なら、ハナの主人にも聞こえただろう。
でも、彼はきっと無視をする。彼には目の前の女のほうが大事。
何があっても、目の前の女だけを見て必死に愛するのが彼の礼儀。
わかってる。全部わかってる。わかっている。
ハナはひとり。
ハナは地下でひとりきり。
きつく、きつく自分の足を抱きながら息を潜める。
身体はとうに冷え切っていた。じわじわとしみこんでくる冷気が、そっとハナの肉を固くする。誰かの冷たい手みたいに、ぎゅっとハナの心臓を押し包む。
ハナは知っている。
これが、心臓をつかまれるような気持ち、というやつなんだ。
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