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※
はるか昔、遠くの国で迫害された人たちがいた。
どの国も彼らを受け入れてくれなかった。
食べ物はとっくに尽きはて、子供や老人から苦しみながら死んでいった。
それでも彼らは長い長い放浪の旅を続けた。彼らに帰る家はなく、引き返すことはできなかった。暑い日も寒い日も雨の日も風の日も彼らは歩いた。歩くしかなかった。旅を続ける彼らにとって、安息の地は墓の中しかなかった。誰も花を飾らない無名の墓。省みることのない無残な歴史。五百人いた同胞は百人にまで減っていた。
ある日、彼らは山の中にある深い森に迷い込んでしまった。森は暗く、不気味だった。子供たちは泣き叫び、大人たちは絶望した。そんなとき、同胞の一人が真っ赤に熟した林檎を見つけた。同胞は林檎を泣き叫ぶ子供に譲った。本当は自分もお腹が空いていたのに。
その同胞が空腹を紛らわすために空を見上げると、目線の先に林檎をたくさん実らしている木を見つけた。他の同胞は薬草の群生を見つけていて、さらに他の同胞はすでにウサギを仕留めていた。
恐ろしいように見えていた山の恵みは豊かだった。よく見れば辺りは温かな木漏れ日が降り注ぐ美しい森だった。
彼らはあることを思いついた。
「受け入れてもらえないなら、自分たちで里を作ればいい」
生き残った百人はここを安住の地に決めた。
1
竹林を抜けた時、僕は思わずがっかりした。理由は簡単。見渡す限り田んぼが広がっている。でも、その全てが干からびていて、地面は砕かれた煎餅みたいにひび割れていたからだ。季節は金風の吹く実りの秋なのに、黄金色の稲穂も忙しく空を飛ぶ蜻蛉も見当たらなかった。
「期待できそうにないなぁ」
僕がため息をつくと同時に腹も鳴った。僕は自分の腹の虫がこんなにも情けない声で鳴くなんて知らなかった。聞いた人の同情を誘うにはうってつけだろうけど、周りに人影はない。
僕は背嚢に手を突っ込んだ。背嚢の中にある皮袋から干し飯をひとかけら摘んだ。口の中に入れて、噛み砕く。口の中で乾いた音がした。
言っておくけど、金がないわけじゃない。
『悪いねぇ、あんちゃん。売るものがねぇんだ』一週間前に立ち寄った別の里の人にそう言われた。そこの里も飢饉に襲われていた。田畑は干上がり、作物は豊かな実りをつける前に枯れて塵になったらしい。僕は概ね南に向かって進路を取り続けていたけれど、北の方はここまで酷い有様ではなかった。もしかしたら、さらに南下していくと、目も当てられない状況なのかもしれない。
目下のところ、僕は目的地を探している状況だった。思いつきで南下したのが間違いだったかもしれない。離島で影との追いかけっこをして散々な目にあったあとだったから、陸地が良いと思っていた。
僕は右手に切り立った崖を見つけた。田んぼがあるなら、人がいるはず。食料には期待ができないけれど、目指すべき目的地への指針くらいは手に入れたかった。僕は重たい足を動かして、崖の先端に向かうため傾斜を登り始めた。僕の心とは裏腹に腹の虫は鳴き続けた。僕の体は僕の心ほど堪え性がないらしい(体と心の差は音が出るか出ないか、その一点だけだけど)。
崖の上から辺りを見下ろすと、枯れた田んぼの先、北の方角に大きな山があり、その麓に人里が見えた。僕はひとまず、里に向かって歩を進めた。
寂しげな里だった。昼間なのに、往来に人通りが少なく、茶屋の店先には呼び込みさえいなかった。山のなかにぽっかりと空いた穴のような場所だった。
僕は暖簾が出ている茶屋の中に入っていった。
中に客は一人もいなかった。店内はがらんとしていて、樹木にあいた虚のように静かだった。いつもなら賑わっている場所に人影がないと病気に罹った犬を見ているような気持ちになる。僕は誰かいないか確かめるために声をかけてみた。
「ごめんください」
僕の声は静かな店の中でよく響いた。すると、奥の方から足音が聞こえてきた。僕の目の前に翁が現れた。翁は砂のようにざらついた声を出した。
「いらっしゃい」
翁は痩せていた。あばら骨は浮き出て、手足には黒や茶のしみがあり、体を支えるために必要な肉しかついていなかった。樹木にあいた虚。病気に罹った犬。
僕は注文することをそうそうに諦めて近くに人里がないかを聞くことにした。
「この辺りに、人里は他にありませんか?」
翁はひび割れてかさついている唇を開くとこう言った。
「お前さんはどの方角から来た?」
「北」
「どの方角に進むんじゃ?」
「南」
翁は「ははぁ」と声を出して自分の顎をなでた。それから、続けて話した。
「どの里も飢饉にやられてしもうたわ。引き返した方がええぞ」
僕は引き返した方がいいという言葉が気になった。
「ここから南下しても意味がないんですか?」
翁はゆっくりとうなずいた。老人がもつ特有の時間の流れと同じような速度だった。
「この辺りは南朝の通り道だった。若い衆も持っていかれたし、そのあとこの日照りじゃ。生者より死者の方が多かろうて」
僕は事実を確認するように「そうですか」と言った。旅人である僕に言える言葉はこれで精一杯だった。僕は右手で頭をかいた。肩にふけが落ちてきた。そういえば最後に体を洗ったのっていつだったかな。
翁は僕の右手を見て、心配そうな顔をした。もちろん、ふけを撒き散らすことを心配したわけじゃない。眉を寄せて、悲しげな顔をしてくれた。
僕の右手を初めて見た人は大体が、心配そうな顔をする。理由は簡単。指一本一本、手の甲、手のひら、服で見えないけど、肩まで包帯でぐるぐる巻きだから。
「お前さん、その右腕どうしたんだい?」
僕はさっきと同じように事実をだけを伝える声で翁に説明した。
「怪我、みたいなもんです」
「食べ物はないが、怪我によく効く薬はあるぞい」
翁は踵を返すと店の奥に行こうとする。僕は翁を止めた。
「ありがとう。でも、薬で治るようなしろものじゃないんです」
翁は僕の右手をしばらく見ると、板前にある椅子に座った。それから、置いてあった煙管盆に手を伸ばした。刻み煙草を火皿に詰めて、一服すると翁は僕に話をしてくれた。
「裏の山を超えた先、その山中にシーラーズって里があるんだ」
聞いたことがない里だった。
「その里はな、他の里が凶作のとき豊作なんじゃ」
僕は翁の話を聞いて思わず食指が動いた。
「そんなことあるんですか?」
翁はもう一口、煙を吸った。僕の様子を見て話を続けてくれた。
「不思議じゃろう? 周りの里が飢饉でも関係ない。あの里は豊作じゃ。豊作が当たり前なんじゃ」
「なら、どうしてシーラーズから食べ物を分けてもらわないんですか?」
翁は首を横に振った。煙が立ち上る速さと同じゆっくりとした速度だった。
「それがなぁ、どんな理由があるにせよ分けてくれんのじゃ」
「ずいぶん、けちな人たちですね」
僕の子供っぽい物言いに翁は愉快そうに笑った。
「でもな、意地悪をしているわけではなさそうなんじゃ。その話をすると、シーラーズのものは口を閉ざす」
僕は合いの手を入れる。僕は早く話の続きが聞きたくなった。
「理由があるんですね?」
翁は声を低くして言った。
「これは噂だがの、秘密を喋ると神隠しに遭ってしまうみたいなんじゃ」
翁は笑っていた。その時ちょうど、太陽が雲に隠れたせいで、陽が陰った。薄暗くなった店の中で髑髏が笑っているようだった。
「神隠しですか?」
雲は抜けたようだった。店の中に陽光が戻ってきた。
「そう。そう言う理由もあって、うちの里のものは近づこうとせん。あんたのその腕、薬が効かないのなら、シーラーズの不思議な力が役に立つかもしれん。まぁ、身の安全は保障できんがのぅ」
今度は僕が首を振る番だった。
「いいですね、神隠し。なんだか面白そうだ」
翁は小さくて黒目がちな目を目一杯見開いて驚いていた。
「話しておいてなんじゃが、危ない目に合うかもしれんのじゃぞ? シーラーズに行くのはおすすめできん」
僕は「ごもっとも」と言って頷いた。でも、僕の心は早く早くと言っている。おもちゃをねだる子供と一緒。十八年間、我慢した反動は恐ろしいと改めて思った。抑えきれない気持ちが言葉になって口をついた。
「でも、せっかく誰にも指図されない旅人になったんだから、心の赴く方へ足を伸ばしたいんです。見る物、聞く物、食べる物、そこでしか感じられないものっていうのを集めていきたいんです。それに、旅のついでに僕が探し求めているものはそう言った類のものだから、一石二鳥なんですよ」
僕が熱っぽく喋ると、翁は愉快そうに笑った。
僕は翁からシーラーズまでの道筋を聞くと、革袋に残っていた干し飯をあげた。翁は皺の寄った顔をさらにしわしわにした笑顔を僕にくれた。僕はシーラーズに向けて里を発った。
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