1人が本棚に入れています
本棚に追加
/6ページ
煌夜
死の際に思い出されるとしたら、それはおそらく今感じるような、逸脱した日常の風景なのだろう。
夜。
日落ちてもうしばらく経つ。
乾いた街路の上を、満月に照らされて歩いている。
一軒家とアパートが並び、小さな公園がある住宅街。
窓から漏れる明かりは少なく、あっても暖色系のものばかりだ。
街灯はまばらにあるが、今日は月光で影ができるほどに明るい月夜。風景以上の価値はあまりない。
しかし、私が求めているのはまさにその風景としてのここなのだ。
人は他に誰もいない。
声はない。
車の音も聞こえてこない。
しかし無音ではない。
世界はこうあるべきなのではないか、とすら思ってしまう束の間の空白の時間。
ここは誰のための場所でもない。
だが今ここには私しかいない。
私はきっとそれを望んでいるのだ。いつであっても。
人は嫌いではないが、人の群れは嫌いだ。
この澄んだ世界は、人と共有はできなくてもいい。
静かで、少し肌寒く、そして普段とは少しだけ異なる薄闇。
歩く速度は自然とゆっくりになり、視線は空へ向く。
星はほとんど見えはしない。
だが私の感じる、逸脱した日常の風景の中では、そこにあるのは今見えているより何倍も大きな満月と、夜空そのものが光を放っているのではないかと思えるような満天の星空だ。
その下にあるこの街路に寝そべって、私は死ぬのだ。
そう、私の原風景は田園でも山林でも海浜でもなく、夜の住宅街の中にある。
人と会いたいような時ではないが、それぞれの家の中には人がいるのだろうと感じてはいたい。
この風景はきっとここではない場所にもあるのだろう。
私が死ぬまでの間は、どこかで残り続けていてほしいと思う。この場所でなかったとしても。
そして老いた私は過去と死を呼び起こさせるその風景の中を巡り、日常へとかえっていく。
その日常が天井を眺めるだけの日々だったとしても、私はきっといつまでもそこへ戻っていこうとするだろう。
ただし、それもいつしか叶わなくなる時が来る。
しかしそのとき、私はここにいる。
確かにそう思えるからこそ、今日のこの日の私も、自分の家へと帰っていくことができるのだ。
過去も死も、ここならば置いていける。
その救いを、輝く夜空に見て歩いていく。
―了―
最初のコメントを投稿しよう!