§1

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 長い遠回りの末に辿り着いたその家には、桜の木がなかった。  目印の桜を探して、朝倉智志(あさくらさとし)は今来たばかりの道を引き返す。晩秋の冷たい風に首をすくめながら、プリントアウトしてきた地図をもう一度確認する。  駅からまっすぐに歩いてきた道は間違えようがない。そこから細い道に入る角も、昔からある目印の古本屋が健在だった。だが、そこから先はもう自信がない。自分が曲がったのは本当にこの二つ目の角だっただろうか。道なりに進んでいるつもりで、変な脇道に入り込んでしまっていないだろうか。  どれだけ悩んでも、答えは出ない。  方向音痴と人見知りというのは最悪の組み合わせのひとつだ。知らない町で迷子になっても、通行人に道を尋ねるのに尻込みをしてしまう。それくらいなら多少無理をしてでも自力で辿り着こうと考えてしまって、さらに迷う。迷路の自動生成装置みたいなものだ。  確実に再出発できる場所まで戻りたいのだが、既に駅がどちらだったかもわからなくなっている。乗り物酔いのように頭がくらくらしてくる。窓の外に見えていた風景が実はだまし絵だったと気付いたかのような、掴みどころのない空振り感。  鼓動が速い。息が苦しい。顔から血の気が引いていく。パニック寸前になっているのが自分でもわかる。目を閉じて深呼吸をして、襲ってきた不安をやり過ごそうとする。  そのときだった。 「あの、失礼ですが」 「うわあぁっ」  すぐ後ろからいきなり声をかけられて、口から心臓が飛び出しそうになった。 「あーごめんなさい、そんな驚かすつもりは」  幾分間延びしたような返事をしたのは、ひょろりと長身の男だった。身長百七十センチの智志より十センチ近く背が高そうだ。
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