0人が本棚に入れています
本棚に追加
アスールの父は、いくつもの農村を任されている領主だ。
四人兄弟の長男として生まれたアスールは、父の仕事を継ぐことを早くに決め、王都の学園を卒業してすぐ家に戻った。それから、父の補佐をしながら領主の仕事を本格的に学び始めた。
上の弟はまだ学生、下の弟は入れ替わりに入学したので、屋敷に兄弟はアスールと末の妹だけになった。
その頃、アスールは年に二回の長期休暇が待ち遠しかった。弟達が帰ってくれば、妹のお転婆の被害を分散出来るからだ。
妹のネクロは、熱しやすく冷めやすい気質だった。
作曲家になる! と言い出して、朝から晩までピアノを弾き続け、自室の床を譜面で埋めたかと思うと、一、二ヶ月後には発明家になる! と言って、ボコボコと謎の液体が暴れているフラスコを片手に、兄を追いかけ回したりする。
一番性に合っているのは絵描きのようで、年に四回は筆と絵の具を持ち出してくる。安眠妨害にもならないし、誰かのほほが青緑に変色する心配もないので、このままずっと絵を描いていてくれたら、とその度に兄達は願う。しかし、その願いが叶ったためしはない。
10歳になったネクロが、兄達に倣って学園に入学すると、その気まぐれに供が出来た。学友の一人を日中ずっと連れ回し、三男の下に突撃する時も一緒だという。
初めての冬期休暇の間、ネクロはずっと絵を描いていた。困った気まぐれさえ起こさなければ、かわいい末っ子である。領主修行の合間に、アスールはアトリエと化している部屋に顔を出した。
まあるいほほ。胸の前で組まれた小さな手。
目が描き込まれた。クリクリとした、丸くて大きな目。お茶の時間に母が手ずから入れてくれる、甘い香りの紅茶に色がよく似ている。
パレットで絵の具を少しずつ混ぜていく。出来た赤は、夏に花壇で咲いている花と同じ色だった。その色で描き込まれた髪は、肩に掛かり風を含んだように広がっている。
小さな唇が、ゆるく口角を上げている。じっと優しい眼差しをこちらに注いでいる。
ほほに桃色を差すと、妹はその少女を友人だと紹介してくれた。三男がよく似ていると褒めた。
初めての夏期休暇に、ネクロはその友人、プリームを連れて帰ってきた。妹の話から想像していたよりずっと、彼女は小さかった。父に似て大柄なアスールに驚いたのか、あいさつの後、彼女はずっとネクロの後ろに隠れていた。
幼い頃は、プレゼントとごちそうにあふれる年末年始を何よりも楽しみにしていたのに、友人が出来たネクロは、冬より夏の方がはしゃぐようになった。埋もれてしまうほどの花をプリームに抱えさせ、屋敷中に生けて回ったり、プリームにも網を渡し、虫を追って庭を走り回ったりした。
***
ある年は、ネクロが屋敷の中を走り回っていた。客間のカーテンをはぎ取っては部屋に運び、次男がもらったプレゼントからリボンを強奪しては部屋に運んだ。小鳥かリスでも乗り移ったのかと言ったのは、母だったか父だったか。
アスールが休息のために自室へ向かっていると、丁度通りがかったところで、ネクロの部屋の扉がバンッと勢いよく開いた。飛び出してきたネクロは、兄に目もくれず廊下を駆け抜けた。本当に巣でも作っているのかと、アスールは中をのぞいてみた。
部屋の中には、妹が集めただろう布やら花やら飾りやらが規則なく散らばっていた。いつもの気まぐれと大差ないようだ。窓際にイスが一つ寄せられていて、そこにちょこんと赤毛の少女が座っていた。
プリームの姿は妙だった。体にカーテンがグルグルと巻き付けられていて、やわらかい髪に白いリボンが絡んでいた。窓の外を眺めていたプリームは、アスールに気がつくとぴんっと背筋を伸ばした。前髪に引っかけていた黄色い花が、ぽとりと膝の上に落ちる。
「アスールさん……。」
「……今回は何だ。」
遠くから見ても、近くに寄ってもよく分からない。プリームがカーテン地を両手でぎゅっと握る。小首をかしげた。
「ドレスのデザイナーになるそうです。私は、マネキン役でしょうか。」
「ドレス……。」
このカーテンを切ったり縫い付けたりするつもりなのか。それはちょっと困る。
思わず眉間にしわが寄る。ちらっとそれを見上げて、プリームがつぶやいた。
「すみません……。」
「いや、こちらこそすまない。君も、いつもいつもあれに付き合うのはつらいだろう。私達はあれを甘やかし過ぎてしまったな。」
ふるふると小さな頭が揺れて、赤い髪がふわふわと広がった。
「追いかけるのは、大変だけど、つらいと思ったことはありません。私は、自分がどこにいたいのか、どっちに行きたいのか、すぐ分からなくなっちゃうから。ネクロちゃんが手を引いてくれると、安心します。」
膝の上、ゆるく握った自身の手へ視線を落として、プリームがほほ笑む。
優しい眼差しに、キャンバスの中の彼女を思い出した。夢中で絵筆を踊らせるネクロの横顔と、出来あがった絵を見せびらかす得意気な笑顔も。
書き散らかした譜面は、どこに行ってしまったのだろう。ちり紙回収に持たせてしまったのだろうか。謎の緑の液体は、流しに捨てようとしているのを料理番が必死に止めていた。
屋敷中を花まみれにした後、二階の角の一瓶が一番の力作だと、絵に残していた。花が枯れると、同じ場所に勝手に額を掛けた。
捕まえた虫の中で、水面のようにきらりきらりと光を弾くチョウを気に入って、標本にした。今は領主の執務室に飾られている。
妹のネクロは熱しやすく、冷めやすい。
何か標的を見つけては、ただただひた走り、ある日突然立ち止まる。拾ったものを全部足下に投げ出して、次の標的を見つけるまで考え込んでいる。
たが今は、成果を鼻高々で家族の下に持ち帰って来る。そして、上がったままのテンションで次へ駆けて行くのだ。以前よりさらに騒々しくなった。
アスールの唇からふっと笑みがもれる。
「ネクロはずっと楽しそうだ。あれも、君が手をつないでくれるから、安心してどこまでも走っていけるんだろう。」
赤毛が揺れて、そろりと顔が上げられる。紅茶色の瞳が、ぱちぱちと瞬く。カップを回したようにその色が揺れた。
言葉に出来ない気持ちを胸に納めるように、プリームはぎゅっと両手を重ねた。丸いほほに、じんわりと赤が広がる。ふくっと持ち上がる。上がる口角とは反対に、眉尻がへにゃりと下がった。
今年も庭に咲いたあの花は、何というのだったろう。いつか母が口にしたはずなのに、アスールは思い出せない。ただふわふわと風に揺れる情景が胸にひらめいた。
「プリーム!」
妹の声が背後で弾けた。プリームの目が扉へ向く。アスールもぎこちなく振り返った。
ネクロは白い布を腕に抱えていた。端の金刺繍に見覚えがある。食堂のテーブルクロスだ。ぱっちりしたつり目が、不思議そうにアスールを見上げた。
「兄様? どうしたの?」
「いや……。」
かぶりを振ったのは、否定のためではなく、幻を振り払うためだった。すれ違いに、黒い頭をぽんぽんとたたく。
「夕食までには区切りをつけなさい。あの格好のままじゃ、食事が出来ないだろう。」
「はぁーい。」
ネクロがぱたぱたとプリームに駆け寄る。クロスをぽいと机に放り、プリームへ両手を差し出す。彼女を立ち上がらせるとカーテンを解きにかかった。片付けに入ったのではなく、次を試すためだ。アスールは廊下へ出ると扉を閉めた。
執務室に戻ると、父が目を見開いた。
「休憩はもう良いのか?」
……忘れていた。
***
ある年は、ネクロもプリームもずっと部屋の中に引きこもっていた。せっかくの良い天気なのだから庭で遊べば良いのにと、様子を見に行くと、二人は一つの机を挟んで向かい合わせに座っていた。
ネクロがせっせっと羽ペンを走らせている。プリームが思案するように視線を斜めに上げて、ぽつりぽつりと何やらつぶやいていた。それを書き取っているようだ。
「それでね、家族想いの頑張り屋なんだよ。責任感が強くってね、みんなの幸せのために、出来ることからこつこつ頑張ってるの。」
「なるほど!」
がばりとネクロが顔を上げる。書き上がったものを見て、ふふんっと鼻を鳴らした。
「この人ってさ、体格以外はほぼ私じゃない!?」
プリームがぱちぱちと目を瞬かせた。しばらく置いてからうなずいた。
「そうかも。ネクロちゃんと似てるね。」
「でしょー! ふっふっふっ、私ってばプリームの理想のヒーローだったのねっ!」
きゃーきゃーとうれしそうに声を上げて、ネクロがバンバンと机をたたく。ふっと濃紺の目がこちらを捕らえた。ぱっと顔を輝かせる。
「兄様!」
「! アスールさん。」
プリームはぴょっと跳ね上がると顔を伏せた。驚かせるつもりのなかった小動物に、逃げられてしまったような切なさがある。
アスールはため息で感傷を逃がした。
「今度は何をしているんだ?」
「ふっふっふーっ。戯曲だよ戯曲! 私、舞台作家になるの!」
「はあ。」
そういえば、今年の春に母が王都に出掛けたのだった。二人を連れて観劇へ行ったとか。その影響か。
「キャラクターはね、プリームに考えてもらってるんだー。」
「そうか。出来あがったら母上に見せるといい。きっとお喜びになる。」
「本当!? よーし、頑張ろうね、プリーム!」
「……うん。」
プリームがこくりとうなずく。なぜかほほがうっすらと赤くなっていた。
つたない言葉がちりばめられた冒険活劇は、朗読という形でお茶の席で公演された。ネクロはヒーロー役を譲らず、プリームが恥ずかしがって辞退したので、ヒロインは三男が務めた。
***
冬のある日、父が病に倒れた。アスールが補佐について、9年目のことだった。幸い一命は取り留めたものの、本復は難しいという。
アスールは25歳、結婚もしておらず、領主になるには少し早い。しばらくは領主代理として領地を守り、しかるべき時が来たら正式に家督を継ぐということで、話がまとまった。
ネクロは例年より一週間も早く帰ってきた。涙目で突撃してきた末娘に、大げさだと父は苦笑したが、やはりうれしそうだった。
年が明けてネクロは学園に帰り、少し前とは違う日常が重なり始める。父の助言はある。母と三男の協力もある。それでも、忙しさと気疲れに目を回しているうちに、春はあっという間に過ぎて行った。
庭に赤い花が咲くと、母の話は二人の少女のことばかりになった。侍女達は言われずとも、妹の部屋に二人分の寝具を準備した。父は手紙を読むと、今は焼き物に興味があるそうだ、と苦笑した。
帰ってきてすぐ、ネクロは玄関ホールでカバンを開け放った。プリームに手伝ってもらいながら、衣服の中から頭ほどの大きな瓶を発掘した。日の光を煮詰めたような、黄金色のアメ玉が瓶いっぱいに詰まっている。ネクロはえへんと反り返って、それを父に渡した。
これは蜂蜜のアメで、滋養がどうだ、疲労回復がどうだ、とおそらく品書きに書いてあったのだろうことをつらつらと並べた。
「プリームが見つけたの。それで、二人で一番大きいの買ったのよ。いっぱいあった方がみんなも食べられるし、みんなも元気になるでしょう?」
ねー? とネクロが顔を合わせると、プリームもへにゃりと笑ってうなずいた。
父も笑って、ネクロの黒い頭をわしわしとかきなぜた。それから、その大きな手をスライドさせて、隣の赤い頭も遠慮なくなぜた。
きょとんと、紅茶色が瞬く。自分もボサボサなのに、跳ねた赤毛をネクロがからかってまた笑った。
***
最初のコメントを投稿しよう!