彼女が逃げた、ホントの理由

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 客間の一つが、プリームの部屋になった。冬の間にネクロが勝手に模様替えを行った。卒業の式の後、プリームはネクロと母が直接連れて帰ってきた。数日後、彼女の家から小さな荷物が届いた。中身は数冊の本と、去年ネクロが作ったいびつな花瓶だった。  プリームの仕事は秘書見習いだ。書類を作成、整理し、必要に応じてアスールや三男に渡してくれる。  忙しい時期には、三男の報告書作りを手伝ったり、先輩秘書の使いで走り回ったりする。手が空く時期には、ネクロの相手をしたり、出掛ける母の供についたりした。  プリームが屋敷の一員になって、もうすぐ一年経つ。  執務室には応接用のローテーブルの他に机が二つある。一つは代々の領主が使っているどっしりとした古い机。もう一つは、ちょっとした書類の確認や直しにアスールや秘書が使っていた小さな机。  父の代から働いてくれている中年の秘書は、扉でつながった隣の仕事部屋にいることが多い。そのため、アスールが領主を継いでから、小さな机はすっかり書類置き場になっていた。今は、プリームが使っている。  アスールには少し窮屈だったイスにちょこんと腰掛けて、プリームは各農村からの作付け報告をまとめていた。  ペンが止まり、ペン立てに戻された。大きな目が紙面に落ちて、つらつらと文字を追う。数字や地名を念入りに確認しているのか、時折、ちらちらと原本との間を行き来した。顎を引くようにして一番下まで目を通す。ぱちりと瞬いて、彼女はふっと息をついた。肩からも力が抜けるのが分かる。 「プリーム。」  アスールが声をかけると、びくっと体が跳ねて、ぷわっとやわらかな赤毛が広がった。振り返る紅茶色の瞳が、まん丸に見開かれている。思わず、アスールの眉がくっと寄った。 「それが終わったなら、ネクロの所に顔を出してやってくれ。」 「でも……。」 「そのペースなら、明日には終わるのだろう? 根を詰め過ぎると、思わぬところでミスをするぞ。休んできなさい。」  紅茶色が揺れる。ためらうように視線が机を滑る。やがて顔を上げると、眉尻をへにゃりと下げてほほ笑んだ。 「分かりました。お先に失礼しますね。」 「うむ。」  プリームは書類をしまうと、筆記具は整頓するだけでイスから立ち上がった。秘書部屋の扉を開けて中へ声をかける。こくりとうなずくと、机の端に積んであった書類の束を相手に渡した。とことこと廊下へ向かい、扉の前でアスールへ向き直る。 「若旦那様も、無理をなさらないでくださいね。」 「ああ。」  ぺこりと頭を下げて、プリームは出て行った。  ぱたりと扉が閉じて数秒、アスールは深く息を吐き出す。机の上に肘をつくと、その手に額を押しつけた。  緊張した人間が傍にいることが、こんなにも疲れることだとは、知らなかった。刺激したら飛び上がって逃げて行ってしまうのではないかと思うと、一挙手一投足にも気を遣う。  淑女に使うにはあまりに失礼な表現だとは思うが、プリームはちっともアスールに馴れない。声をかければ跳ね上がり、目が合えば身を固くする。ネクロと遊んでいるのを見守っていた時とは違い、日中ずっと一緒にいるようになると少々堪えてくる。  嫌われている、ということはないと思う。プリームは時々、笑顔を見せてくれる。しかし、この巨体かしかめ面か、何らかの原因で自分のことが苦手ではあるようだ。  プリームが元々デスクワークの仕事を希望していたから、自分の補佐についてもらったが、失敗だったのかもしれない。いっそネクロの友添いとして雇うか。今でもネクロや母が茶会に呼ばれる時に供をしている。今更だ。  アスールのため息がさらに深くなる。  保護したつもりでいたが、果たして我が家は彼女にとって良い環境なのだろうか。  ***  夕食に向かう途中で、ネクロと廊下で鉢合わせた。庭で何をしていたのか、黒い髪に木の葉が絡んでいる。アスールはそれを手ぐしで払ってやりながら、妹が入ってきたガラス戸の向こうを見た。庭の奥は廊下からの明かりが届かず、紺色に沈んでいる。 「プリームは母様に捕まっちゃったのよ。」  ネクロが悔しそうに唇をとがらせた。母に着せ替え人形にされるのを嫌って、植え込みにでも隠れていたのだろう。  アスールは、妹の子供っぽさを叱ることもからかうことも出来なかった。ネクロの言葉に、ドキリと手が止まる。庭に視線を投げたのは、正確に言えば、妹の背後に少女を探したのは無意識でのことだった。自分すら分からない行動の意味を見透かした妹に、動揺して思考が鈍る。  反射的に飛び出しそうになった否定の言葉を、慌てて飲み込む。ごまかすようにもう一度妹の頭をなでた。 「そうか。」  味気ない返事を、ネクロが気にする様子はない。ただじっと、濃紺の瞳で兄のそろいの瞳を見つめている。その視線から逃れるように、アスールは体の向きを進行方向に戻した。ツカツカと大股で歩き出すが、ネクロが小走りに追いついてきて、隣に並ぶ。 「兄様さー、最近、眉間のしわがすごいよね。」  体をかしぐようにして顔をのぞき込んでくる。立てた人差し指で、つるんとした己の額をちょんちょんと突いた。 「プリームも心配してたよ。」 「……もしかして、これのせいなのか。」 「? 何が?」 「いや。」  ネクロが最近と言うのなら、ここ数ヶ月のことなのだろう。その間にプリームの態度が変わった実感はない。しかし、自分がしかめっ面なのは今に始まったことではないし、やはり原因なのだろうか。 「あの、兄様、今まさにさらに深くなってますけど。」  ……既に悪循環にはまっている気がする。 「兄様? 大丈夫? 具合悪い? おなか痛い?」 「……大丈夫だ。」 「そんなうめくような声で言われましても。」  ネクロの顔が曇る。アスールは気持ちを立て直そうと、胸にたまっていた息を吐き出した。鉛のように重くて、ゴトリと足下に転がり落ちたような感覚がする。 「……プリームは、私を怖がっているだろう。」  口に出すには勇気が要った。それでも向き合わなくてはいけないし、相談する相手は彼女と親しいネクロが適任だ。  ネクロが足を止めたのだろう、視界の端にふっと消える。アスールも立ち止まって妹を振り返った。  青い目が、見開かれている。ぽかんと唇が開いていた。この妹には珍しい表情だ。ネクロはどちらかというと人を驚かせたり困惑させたりする方が得意である。  ざわっという木々の揺れる音で、ネクロははっと我に返った。 「え!? 何それ、どこ情報!?」 「どこって、私から見たままだが。」 「何で? どの辺が?」  ひどく動揺しているネクロに、アスールも戸惑う。てっきり、ネクロは把握しているものだと思っていた。 「……私が声をかけると飛び跳ねる。」 「ああ。私が抱きつく時もよくビクーってなるよ。」  妹の抱きつきは体当たりと同義だ。背後からタックルをかまされれば誰だって驚くだろう。 「私といると、緊張するようだ。」 「それって仕事中でしょ。ヴァイス兄様みたいにだるーんってしてるより、良いと思うけど。」 「それはそうだが……。」 「要するにさ、」  ネクロがずいっと指先を突きつけた。つり目で下からアスールをにらむ。 「プリームの反応が気になって気になって、兄様の方が緊張しちゃってるってことでしょう?」 「ぐ……。」  どうしてこうも、気がついて欲しくないことは見透かされているのだろう。10歳上の兄としては、何だか情けない気持ちになる。  ネクロがわざとらしくため息をついた。 「確かに、プリームは緊張しいだよ。ダンスの授業とか、前でやれって言われた途端にガチガチのロボットみたいな動きになるし。ぼんやりさんだから、横から声かけただけでスゴクびっくりするし。でもね、あの子はリスでもネコでもないの。びっくりしたからって、すぐ逃げてっちゃったりしないの。びっくりさせといて大丈夫なの。」 「驚かせて良い訳はないだろう。」 「気にしまくってギクシャクするより断然マシ!」  ギクシャク、はしていないはずだ。 「眉間のしわをー、プリームも気にしてますー。」  続く言で反論を封じられる。つまるところ、アスールに変化があれば、それはプリームにも伝わるということだ。妹曰く緊張しいの少女が、上司の眉間にしわが増えていくのを平然と見守っていられるだろうか。 「私は……何も気にするなということか?」 「そうよ。緊張しっぱなしじゃ、兄様だって疲れちゃうでしょう?」 「むぅ……。」  とにかく、眉間のしわを解消するところから始めるべきか。  アスールは歩き出しながら、ぐっぐっと親指で自身の眉間を押してみた。横に並ぶネクロがまだこちらをのぞき込んでいる。 「何だ。」 「兄様、良いこと教えてあげようか。」 「……何だ。」  ふふんっとネクロが笑う。 「昔ね、プリームに褒められたの。」  くるりと身を翻してアスールの前に回り込む。向かい合ったまま、器用に後ろ歩きを始めた。妹に合わせて、アスールの歩行速度も下がる。 「ネクロちゃんが怖いもの知らずなのは、頼りになるお兄さんがいるからだねって。」  ネクロの笑みは得意気だ。プリームの肖像を見せびらかしていた時のように。  アスールはため息をついた。 「怖いもの知らずって……褒め言葉か?」  ネクロがほほを膨らませた。 「ちがーう! 私はいつも褒められてるから良いの。そうじゃなくて兄様、ちゃんと聞いてた? 頼りになるお兄さんって、兄様のことよ。」 「私?」 「そーよ! 忘れちゃったの? あの日、私もプリームも、兄様を頼って帰ってきたのよ。それで、まあ、いろいろ整えてくれたのは父様だけど、兄様は助けてくれたでしょ。」  と、ネクロの目がゆらりと潤んだ。その青がこぼれるのを耐えるように、ぐっと眉が寄る。 「私が最初、うちに行こうって言った時、プリームはうなずいてくれなかった。でもね、兄様がいるって、兄様が絶対助けてくれるって言ったら、ようやく手を取ってくれたの。」  ネクロがぷるぷるっと首を横に振った。何かを振り落としたように、濃紺の瞳はいつもの強さを取り戻している。 「兄様は、私の自慢の兄様よ。かっこよくて頼りになるの。それはプリームにとっても絶対同じ。だから、もっと自信持ってくれなきゃ。」 ――ここが彼女の居場所になれば良い。夏と言わず、冬と言わず、ずっと。  プリームを屋敷に迎える時に降りた祈りがよみがえる。  5度訪れた夏の中、彼女と交わした言葉は多くない。妹に向けられる笑みだとか、その手元をのぞき込む瞳だとか、走り回ってぱたぱた揺れる赤毛だとか、いつも横顔ばかり見ていた。たまに正面に立つ時、ほとんどは間に妹がいて、彼女はうつむいていた。  それでも、彼女をここに導いたのが、自分の存在だというのなら。地に着きそうだった彼女の膝を支えたのが、自分だというのなら。 「……そうか。分かった。」  アスールの口から、またため息がこぼれた。それは、何かを吐き出すためのものではなかった。詰めていた呼吸が楽になる。すとんっと胸の内に何かが落ちた。そのままどこかのくぼみに収まったような、そんな心地。  ネクロがふふっと笑みをこぼす。 「兄様、元気になった? ね、良いこと教えたでしょ?」 「ああ。すまなかったな、情けないところを見せた。忘れろ。」 「えー? それはどうしよっかな。」 「おい。」  くるくるっとステップを踏んで、ネクロが背を向ける。 「みんなには内緒にしてあげる。」  そのまま踊るように駆けて行き、食堂に入った。あと少しの距離を、アスールも早足で詰める。妹を振り切ろうとしていた時よりずっと、足が軽くなっていた。  ***
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