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街で働いている次男が帰ってくると、兄弟が執務室にそろう。まず次男が兄に帰郷のあいさつをし、次に三男が土産の催促にやって来て、最後に末っ子が秘書見習いに休憩を促しに来るためだ。
今日も、街の様子を話す次男の向こうで、応接セットのソファに陣取った三男が、もりもりと飴がけのナッツをほお張り、分けてもらったそれを、向かいのソファでネクロとプリームがさらに分けている。
街で流行った風邪の話が一区切りし、次男がネクロを振り返った。
「ネクロ、この間借りた戯曲なんだけど、あれって続きあったよな?」
「あるよー。読む?」
「というか、全部持って行っても良いか? 友達が気に入ったみたいなんだ。」
「何と! 芸術の分かる人ね!」
ぱぁっと顔を輝かせたネクロが、菓子の鉢をプリームに押しつけて部屋を飛び出した。一度遠ざかった足音が戻ってきて、扉が閉まった。また駆けて行く。
「こないだ言ってた花屋の子?」
「ううん。お菓子屋の子。」
「ああ。どうりで。」
三男が飴がけの袋、それに貼られているシールに視線を落とす。いつも次男が買ってきてくれる菓子は、ウサギのシルエットが描かれたシールが貼られている。しかし、今回はハトが麦の穂をくわえているマークだ。店が違う。
「お前はいつまでフラフラしているつもりだ……。」
「いやぁ、兄さんより先に身を固めると、ほら、叔父様がうるさいし?」
次男はニコニコと笑みを貼り付けている。何を言われても聞き流すつもりのその態度に、アスールはため息をついた。叔父の言うことだってまともに聞いていないだろうに、言い訳には使うのだから、悪い甥っ子だ。
アスールがイスに背を預けると、たかたかと軽い足音が廊下を迫ってきた。立ち上がってプリームが扉を開ける。ぴょんっとネクロが飛び込んできた。両手で紙の束を抱いている。
「はい、ロート兄様。シリーズ全部持ってきたよ。」
「ありがとう。お前は仕事が速いね。」
受け取って、次男が三男の隣に腰掛ける。少女二人は向かいのソファに戻った。三男がテーブルに載った菓子鉢にざらっと飴がけを足してやる。
弟妹はここでくつろぐ気満々だが、兄にはまだ仕事が残っている。アスールが羽ペンを持つと、プリームがちらっと顔を上げた。机に戻ろうとする彼女を手で制す。困ったように眉を八の字にして、ネクロの隣に座り直した。
パラパラと紙をめくりながら、次男が口を開く。
「ネクロの書くヒーローって、何かいつも似たような感じだよな。」
他の作家ならギクリとしそうな発言に、ネクロがひるむ様子はない。むしろ、ふふんっと誇らしげに笑った。
「仕方ないでしょ。何せプリームの理想のヒーローは、この私なんだから!」
ねー? と横からプリームに抱きつく。受け止めながらプリームはへにゃりと笑みを浮かべた。
「あれ、そうなのか?」
次男がページを戻して、まじまじと文字を見つめる。
「へぇ、てっきり兄さんがモデルかと思ってた。」
「あー。前に書いてたやつの、ブラオだっけ、あいつもろ兄貴だったよな。」
ポリポリと菓子を砕く合間に三男がうなずく。ネクロが唇をとがらせた。
「えー? そうかなぁ。ねー、プリーム……、」
軽く身を離して、ネクロは友人の顔を見た。名を呼んだ形で唇が固まり、濃紺の目がぱちりと瞬く。
書類に視線を落としていたアスールは、長年培った長男の習性で”兄さん”という語に顔を上げた。弟へ向けようとした視線は、まず四人を捕らえてから赤毛の少女に吸い付いた。だから、全部見てしまった。その瞬間、次男は手元を、三男と末っ子は次男の方を見ていたから、ただ一人だけ。
紅茶色の大きな瞳が、驚きにまあるく見開くのを。小さな唇が、言葉を失って戦慄くのを。まるで染料を吸い上げるように、白い首筋からほほの丸みを伝って赤が登っていくのを。
震えた唇は、向かい合った友人に何を答えようとしたのか。発せられなかったそれは誰にも分からなかった。おそらく本人にも。
硬直した少女の緊張が伝わって、彼女を見つめたまま兄弟は動けずにいた。
古いカラクリ人形のようなぎこちない動きで、プリームがアスールを振り返った。目が合う。紅茶色が、今にもこぼれそうにゆらゆら波打っている。ほほが熱せられたように真っ赤になっている。
唇が引き結ばれて、きゅうっと眉根が寄った。
プリームは突如立ち上がった。ネクロの手を振り払い、顔を両手で覆って部屋を飛び出した。
「プリームっ? プリームっ!?」
慌ててネクロが追いかける。開け放たれた扉から、ドタバタと騒がしい足音が二人分遠ざかって行く。
「えー……。マジで……?」
ぼう然とつぶやいたのは三男坊だ。飴がけをかむ音が止まっている。ふいっと風が動いて、誰かが机越しに自分の前に立った。
「兄さん、大丈夫?」
次男の声が降ってきた。アスールは応えない。
片手で顔を覆ってうつむいたまま、動けない。
顔が上げられない。
誰にも顔を見せられない。特に弟妹には。今、自分がどんな顔をしているのか皆目見当もつかないが、自分史上最も情けない様をさらしているのは確かだ。
赤がまぶたの裏から離れない。
走り去るのに合わせて翻った、やわらかな髪が。その素直さに従って上気する、ふっくらしたほほが。水面のように透き通った、あの瞳が。
手のひらに熱がこもって、頭まで蒸されそうだ。
END
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