峠の先 2

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峠の先 2

 正面玄関を開けると、雪也くんが立っていた。 「海里先生、お帰りなさい! 僕も兄さまと一緒にお迎えに行きたかったです」 「ただいま。今日の調子はどうだ? 手術前の身体だ。風邪をひかないように」 「はい! 良好です。熱もありません! 海里先生、今日は嬉しいことがあって……テツさんが暖炉を修理してくれたんですよ。こっちです」  俺の手を引っ張る雪也くんの腕は、相変わらず折れそうに細かった。  彼は幼い頃から心臓の具合が悪く病弱だったので、周囲から大事にされ育ってきた。両親亡き後も柊一が自分の身を挺してでも守りたかった弟だ。  俺と柊一の年齢差が10歳、雪也くんは更に10歳差……つまり20歳も年下になるので、我が子と言っても過言ではない。  そんな彼が……とうとう年明けに手術を受ける。  執刀医は、この俺だ。  いつになく俺は手術が近づくにつれて緊張していた。 「先生、暖炉って憧れですよね。兄さまなんて……ずっとうっとりしていますよ」 「はは、どれ?」  居間の扉を開けると、暖かい空気がふわりと俺を包み込んだ。 「海里さん、お帰りなさい」 「あぁテツ、暖炉だって?」 「そうなんですよ。まだ使えそうなんで、煙突掃除をしてみました」 「すごいな。テツ、ありがとう」  居間には使われなくなった暖炉があったのは知っていたが、俺はそこまで気が回らなかった。 「海里さん、お帰りなさい。紅茶を用意してあります」 「あぁ桂人もありがとう、一服させてもらうよ」 「はい」  桂人の執事服もかなり様になってきたな。紅茶の腕前もかなり良くなったはず。瑠衣が特訓を重ねていった成果を拝もうか。 「あ、テツさん、ここに煤が」 「あ? そうか」 「ははっ、そこじゃない」 「どこだ?」 「ここだ」  桂人が背伸びしてテツの頬をペロッと舐めたので、テツが状況に驚き真っ赤になった。  くくっ、これが木偶の坊のようだったテツなのか。お前は酒を交わしても顔色を変えないのに、桂人にはそんな反応をするのか。  可笑しくて肩を揺らして笑うと、桂人の一言に背筋が凍った。 「ん? この味……俺の淹れた紅茶の味と似てるな」  た、確か……さっき、アップルティーだと、柊一が言っていたはずなのに。  桂人が、首を傾げながら……神妙な面持ちで紅茶を給仕してくれた。 「えっと、どうぞ」 「あ……うん」  恐る恐る湯気を嗅ぐと、スモーキーな香りが立ち込めた。だがこの香りは煤じゃない、これは…… 「あぁなんだ、アールグレイのことか」  胸を撫で下ろす。いつぞや……泥色の紅茶を淹れたのを思い出して苦笑した。 「ええっと、アーサーさんが大量の送りつけてきたグレイ家の新作『スモーキーアールグレイ』という茶葉だそうですよ。海里さんには、アップルティーよりこっちが似合うだろ」 「はは、桂人のお見立てか。焦ったよ」 「は? 何に?」  胡散臭そうな目で見つめられ、ドキリとした。  桂人って妙な色気があるんだよな。これではテツもメロメロなはずだ。 「海里さん、暖炉っていいですね。あの……もうすぐクリスマスです。今年は居間に久しぶりにツリーを出して、皆でお祝いしませんか」  柊一が嬉しそうな笑顔で、話し掛けてきた。  おとぎ話にも、暖炉は似合うよな。君の脳内イメージが伝わってくるよ。   「そうだな。暖炉のお陰で家で過ごすのが楽しくなりそうだ」 「はい、それで……暖炉の前に、ラグをひいてくつろげるようにしませんか」 「いいね。ぜひ頼む」 「海里さん、それなら納戸にいいムートンのラグがありましたよ」  すかさずテツが教えてくれたので、すぐに持ってきてもらった。   「わぁ、居心地良さそうですね」  真っ白い毛足の長いムートンのラグは天上の雲のようにも、極上のベッドのようにも見えた。 「兄さま、早速、座ってみましょう」 「そうだね」  柊一と雪也くんが肩を並べて座ると、背中に羽が見えるようだった。  天使のように清らかな君たちだが、天上にはまだ行かさないよ。  俺と寿命が尽きるまで、この地上で生きていくのだ。  雪也くん、手術を頑張ろうな!  俺も頑張るからも、君も精一杯応じてくれよ。  そんな思いがこみ上げてきた。
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