峠の先 17

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峠の先 17

「森宮先生、お疲れさまです」 「うん、集中治療室の患者さんのご家族だ。どうだ? 少し入れそうか」 「ご家族の方でしたら。今は容体も落ち着いていて、目を覚ましているので」 「よかった。じゃあ準備して来るよ」  よかった。雪也に会える!  そう思うと胸が高鳴った。  3歳の誕生日の夜、僕のベッドで胸を押さえて泣いた雪也。    あれから長い年月が経ったね。僕はずっとこの日がやってくるのを、待っていたよ。    ゆきは成長が遅く病気がちで体力がなかったため、手術出来る日まで無事に生きられるか、皆、言葉には出さなかったが心配していた。だから両親も手塩にかけて大切に育てていた。僕とは10歳も離れていたので、弟に両親を取られたという寂しい思いは抱かなかった。むしろ幼い雪が涙を溜めて熱を出し苦しんでいる姿を見る度に、胸を痛めていた。 『にーたま。くるし……かわってよぉ』 『ごめんね、ゆき。その代わりゆきは僕が守るよ』  変わってやりたいのに、こればかりは無理だ。  その代わり何があっても傍にいる。  雪也だけは不幸にしないと誓った。 「海里先生、お待たせしました」 「さぁ、おいで」  専用スリッパに帽子、ガウン、マスクを身につけ、手指を消毒して中に入る。海里さんもほぼ同じ姿だ。  僕たちは目で、合図しあった。 機械に囲まれるように雪也は横たわっていた。酸素マスクに、点滴、尿管……体中が鎖で繋がれたような満身創痍のような状態だが、目だけは輝いていた。  苦しみの中の希望の光。 「雪……雪也! 手術は成功したよ。お疲れさま。本当によく頑張ったね」  僕が枕元で声をかけると、雪也もうっすら微笑んでくれた。 『兄さま、僕……頑張りました。もう兄さまをひとりにはしませんよ。だから安心して下さい』  そんな声ならぬ声が、心に響いた。  僕の弟は無事にこの世に生還した。この地上でこの先も僕と生きていく。  雪也の頑張りを目の当たりにして、感激の涙で視界がぼやけてしまった。 「雪也くん、聞こえるか。まだ麻酔が残っていて今宵は辛いかもしれない。だが日に日に良くなるから、絶対に良くなるから、どうか俺を信じて」  雪也はさっきより深く頷いた。  あぁ……海里さんの瞳は、やはりポラリスの光だ。  僕と雪也を導いて下さる。  あなたと出逢えて良かったです。  僕を愛して下さってありがとうございます。  心の中で海里さんに感謝の念を送った。  ****  その後、海里さんの運転で家に帰ってきた。 「すっかり遅くなってしまいましたね。お疲れなのに運転させてしまってすみません」 「いや、君だって今日は疲労困憊だろう」 「それを言ったら海里さんも同じです」 「俺は柊一が喜ぶことをするのが生き甲斐だ。ってアーサーみたいな台詞だな」  心臓外科医としての素晴らしい腕前。誰もが見惚れるおとぎ話の王子様のようなルックスの海里さんに、一途に愛される喜び。   「どうやって恩返ししていいのか……わかりません」 「恩なんて売っていないから返さなくていいし。俺は君が傍にいて俺だけを見てくれれば、それだけで満足だ。さぁ早く門を潜って、おとぎ話の住人になろう」 「くすっ、最近の海里さんはすっかり僕に感化されてしまいましたね」 「まぁな、とても居心地がいいからね」  海里さんと一緒に、三日月が浮かぶ中庭を眺めた。 「寒くないか」 「海里さんと一緒ですから。それに今日は不思議な気配がしません?」  不思議だな、冬郷家の門を潜ると、本気でおとぎ話の世界に入り込んだ気分になる。 「柊一が言うのだから、そうだろう」 「きっとどこかに魔法がかけられたのですよ」 「それは楽しみだな」  ふたりで部屋に入った時、その謎は解けた。 「あれ? この香り……何でしょうか。どこかで嗅いだような」 「あぁ、とても上品な大人っぽい香りだな」 「あ……そうだ、お父様のオーデコロンとお母さんの香水が混ざったような香りです」 「じゃあ、きっとここにいらしたのでは?」 「そうだったら、嬉しいのに」  もしかして雪也の手術を見守りに、天上から降りていらっしゃったのですか。  そう夜空に問いかけると、窓辺に急に月光がさしこんだ。今宵は三日月だから、そんな力はないはずなのに。  月明かりが教えてくれた場所には花瓶があり、そこには中心が薄紫色の上品な薔薇が生けられていた。 「見たこともない薔薇です……いや、待って。確かこれは……」  息を呑んでしまった。 「どうした?」 「こ、これはお父様とお母様が愛していたあの庭の薔薇です。お二人が結婚された時に植えられたと聞いていた……つまり僕と雪也のルーツの薔薇です。でも東屋の崩壊と共に枯れてしまったはずだったのに、何故?」 「柊一、魔法がかけられたのは本当だったんだな」 「驚きました。でもとても縁起がいいですね。僕たちの守護神になって下さるのです。お父様とお母様はきっと」  魔法は信じる者だけにかけられる――  僕と海里さんは、凜とした中に甘さを帯びた、薔薇の芳しい香りに包まれた。  そして……労り合うように唇を求め合った。  
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