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それからの日々のことはよく覚えていない。小雪を笑わせようとすると彼女はよけいに泣いた。シン兄がいなくなってタケ兄とのケンカのやめどきを見失った。
小さな諍いは大きな絡まりになり、気づいたらタケ兄は会社を継ぐことになっていた。本当ならタケ兄はプロ奏者になってシン兄が跡を継ぐはずだった。
傍若無人で自分勝手、けれど強力な地場で人々を惹きつけて止まなかったタケ兄のトランペット。大好きだった音色は遠く色褪せたものになってしまった。シン兄のベースも、もう聞けない。
私はどうやってピアノを弾いていたんだっけ――
途方に暮れていたある時、シン兄のベースを小雪に貸す話が持ち上がった。言い出したのはタケ兄だった。
そんなのダメだ、小雪をシン兄の身代わりにするくらいなら私はずっと途方に暮れていたい。ピアノなんか弾けなくていい、ジャズなんてこの世から消えてしまえばいい!
薄暗いリビングで怒り狂う私にタケ兄は写真の束を渡してきた。シン兄と小雪、私の三人をタケ兄に撮ってもらったあの日の写真だった。
一枚ずつめくっていった。誰もカメラの方を向いていないのに、みんな楽しそうに笑っていた。ふわふわ巻き毛のシン兄の声が聞こえてきそうだった。
――マナは怒ってても可愛いんだからいいじゃない。
あの時の声が耳の奥をかすめた。「マナは笑っても怒っても可愛いよ」と小雪がフォローを入れる。「なに言ってるのよー」と私は照れ隠しに二人を叩く。
叩いたときのあの柔らかな体の感触、今もこぶしの中に残ってる――
床の上で泣き崩れた。わあわあと泣いてドロドロの感情を押し流してしまいたかった。
シン兄がいない、小雪が笑ってくれない、タケ兄がトランペットを吹いてくれない。あの頃、未来は光で満ちあふれていたのに、どうしてこんなことになってしまったの――
泣きじゃくる私の肩をタケ兄がさすった。このところオリエンテのベースをめぐってケンカばかりしていたのに、優しかったあの頃のタケ兄のようにそっと寄り添ってくれた。
「……ねえ、お兄ちゃん」
「……どうした」
「……シン兄はどうして死んじゃったんだろうね」
「……わかんねえな」
「……死んでどこに……行っちゃったんだろうね」
日の暮れたリビングで呟いた。泣き疲れた私はタケ兄にもたれかかって、窓の外を見上げた。折れそうな月が紺碧の夜空に浮かんでいる。
焼いて骨になったのを見たし、泣き崩れた母の代わりにそれを拾い集めた。養子であることに何の気負いも感じさせなかった陽気なシン兄は、小さな骨壺に収まっている。
「月……かな……」
タケ兄も夜空を見上げてポツリと呟いた。しゃくりあげた私の背中をさすって『ハウ・ハイ・ザ・ムーン』を口ずさむ。私の手は見えないピアノを弾き始める。
「月……かあ」
「いつもマナを見守ってる。だからもう泣くな」
私の頭をわしわしとなでた。全然優しくない無骨な手、トランペットを握っていた骨ばった指、どうしてこんなに安心するんだろう。
「私が会社を継いでもいいんだよ……お婿さん取ってさ」
「婿養子のアテがあるのか」
「ないけど」
鼻水をすすり上げるとタケ兄は笑った。
「マナはピアノを弾いてりゃいいんだ」
タケ兄は立ち上がった。月明かりが差し込む寒い部屋で、下手なピアノを弾き始める。
整った横顔を見ながら、写真を撮りたいと思った。タケ兄は五つの時に養子として引き取られたので、幼い頃の写真は一枚もない。本人が嫌がるので今でも極端に写真が少ない。
これを撮ったときもそうだった。撮るのはいつもタケ兄で、私は撮ってもらうことばかり考えていた。笑っているシン兄や小雪、怒ってる私も全部、タケ兄が撮ってくれた。
「お兄ちゃん……写真撮ってもいい?」
「……なんで?」
「なんだか……すごくきれいだから」
こんなよれた姿でよけりゃな、とタケ兄は苦笑した。シン兄が死んだあと染め直した黒髪は月明かりに照らされてつやつやと輝いていた。
私は腫れぼったい顔をこすってカメラを構えた。タケ兄はゆっくりと長い腕を伸ばして『ハウ・ハイ・ザ・ムーン』を弾き始めた。
壊滅的な下手さだったけれど、左手の動きはシン兄が作っていたベースラインだった。胸が熱くなって涙がこぼれ落ちる。
泣きながら何度かシャッターを切ると、タケ兄は手招きをした。
「ここ座れ」
そう言ってピアノ椅子の座面を叩いた。カメラを首にかけたままタケ兄の右側に座る。何気なくコードを弾き始めると、たどたどしいシン兄のベースラインが始まった。
シン兄はずっとここにいるんだ――またボロボロと涙をこぼしながらピアノを弾いた。タケ兄の下手くそなベースラインはいつまでもリフレインして優しく私を包んでくれた。
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