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第1話 「殺人サブスクリプション」
「いい歳してまだ実家暮らしなのか、お前は」
上司が小馬鹿にしたような口ぶりで言う。
俺はこいつのあざ笑うような表情を見ないために、手元のグラスの進まないビールに目を向けていた。
「いつまでも家族に甘えているような芯の無い奴だから、仕事でもやらかしが多いんだろうな」
ハッハッ、と下品な笑い声を上げる上司。
どんなに顔から目を背けても、その不快なダミ声が耳に入るだけで、脳内にこいつの顔がはっきりと浮かんでしまう。
一秒でも早くこの場から立ち去りたい。早く、今すぐに。
だが、俺には勇気がなかった。明日からの仕事への影響を無視して、この飲み会をぶち壊す勇気が。仕事でのミスが多いのは自覚していたし、そんな男が一丁前に上司をコケにしたところで、会社での居場所が無くなるだけだ。
俺は結局上司のネチネチとした愚痴にひたすら「すいません」と呟き、永遠にも感じられる苦痛の時間が過ぎ去るのをただ待つしかなかった。
◇
「あまり気にすんなよ」
ようやく飲み会から解放され、俯き加減で駅へ向かっていた俺の肩を、3個上の先輩である宮下さんが優しく叩いた。
「あの人の新入社員いびりは毎年のことでさ。俺も散々いびられたからお前の気持ちはよく分かる。辛いよな」
隣を歩きながら、また俺の肩をポンポンと宮下さんが叩く。
宮下さんはいつもこうやって俺の気持ちのフォローをしてくれる。同じ部署の他の先輩達も優しい人が多く、この人達の支えのお陰で俺は何とか働くことができていると言ってもいい。
あの上司ただ一人、あいつだけのために俺のメンタルは削られているのだ。
そう考えるとまた胸クソが悪くなる思いだった。
「……要領が悪いのは自分でも分かってるんです。冬も近いのにまだ全然会社の戦力にはなれていないし、むしろ迷惑かけてばかりだってことも。だから叱られたり注意されたりすることには納得できるんですけど、あの人はそれだけじゃなくて、人格まで否定するようなことを平気で言うじゃないですか。言葉で人を傷つけることを楽しんでいるというか。だから耐えられないんです」
一度口を開くと、溜まっていたものが一気に噴き出してくる。
宮下さんはそんな俺の吐露を静かに、頷きながら聞いてくれた。
「確かに、酷い時は人の家族のことまで馬鹿にするもんな。俺も何回あいつを殺してやろうと思ったか分からないよ」
そう笑ってすぐ、宮下さんは「おっと」と後方を振り返った。
「危ねえ危ねえ、つい本音が出ちまった。万が一本人が近くにいて聞かれてたらヤバかったな」
冷や汗を拭うような動作を大げさにする宮下さん。その姿を見て、俺もつい笑ってしまった。
「本当は俺達先輩が動いてお前を守らないといけないのに、ごめんな。色々模索はしてるんだが中々うまくいかなくて」
「いえ、そう言ってもらえるだけで気が楽になるしありがたいです。俺もあまり考え込み過ぎないように頑張ってみます」
「苦しかったらいつでも吐き出せよ。徹底的に付き合うから」
そんなやり取りをしている内に駅へ着き、俺は改めて宮下さんに話を聞いてもらった礼を言った後、宮下さんの乗る電車とは反対方面のホームへ向かった。
◇
先輩の温かさに触れて少し楽になったものの、明日またあの上司のいる空間に出勤しなければならないことを考えると、すぐに気持ちが淀んでしまった。
顔を上げられないまま自宅に着いて玄関の扉を開けると、そんな俺の胸中を知らない家族達の笑い声が聞こえてきた。
実家暮らしを続けることを薦めてくれたのは両親だ。この家から通勤すればあまり時間がかからないし、貯金もより多くできる。一人暮らしは社会人生活に慣れてからでも遅くない。
そんな気遣いをしてくれる両親に余計な心配をかけたくなかった。だから俺は、未だに一度も仕事の愚痴を家族にこぼしたことがない。
会社はいい人ばっかりで、業務も順調にこなせている。万事順風満帆。
そんな俺の、取り繕った体裁を信じ切って安心している家族達は、リビングでお笑いのネタ番組を観ながらほのぼのと過ごしているようだった。
「あ、お帰り!」
両親に挟まれてソファに座っていた妹の莉久が俺に気付き、声をかけてきた。続けて両親も振り返りながら「お帰り~」と声をかけてくれる。
「ただいま」
いつものように仕事を無難にこなして、飲み会でもうまく立ち回ってきました。
俺はそんな嘘のエピソードを顔に浮かべながら家族に応えた。
それからすぐに着替えて食事。
飲み会では上司にいびられて食欲が出ませんでした。なんて真実は家族に言えないため、いつも「周りへの気配りでゆっくり食べる余裕がない」と言い訳している。
惨めだね。
仕事ができず、上司のいびりを無視するメンタルの強さを持っていない上、そのことを家族に打ち明ける勇気もないから、こんな惨めな思いをする。
俺はこれからずっとこんな生活を続けていくことになるのか。
会社では肩身の狭い思いをして。家では本当の自分の姿を隠すことで、家族を騙しているような罪悪感が募っていく。
――そろそろこの家を出た方がいいのかもしれない。家族と顔を合わせることが減れば、多少は罪悪感も軽くなるだろう。
考え込んでいる間に夜は更けていき、俺も明日への憂鬱な思いを抱きながら自室のベッドに潜り込んだ。
俺がそのメールに気付いたのは、寝る前に少しだけニュースのチェックをしようとスマートフォンを手に取った時だった。
「……何だ、これ」
いくつかの広告メールの中に、見覚えのない送り主からのメールが混ざっていた。
『コロホ運営事務局』。
そしてそのメールの文面は、俺をさらに混乱させた。
『おめでとうございます。貴方は殺人サブスクリプションサービス、【コロホ】のベータ版に当選されました――』
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