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第7話 「人殺し」
しばらくお互いに無言の時間が流れた。
目線の外し方をド忘れしたかのように、俺達は顔を見合わせる。
硬直が解けたのはエレベーターの扉が閉まり始めてからで、宮下さんが慌てて扉を押さえながら、エレベーターの外に出る。
俺は邪魔にならないように後ろへ下がった。その行動に対して、宮下さんが「すまねえ」と小さく胸の前に手を上げながら言う。
「いえ。……お疲れ様です」
殺人施設でバッタリ会った時に言うことじゃないだろ、と自分にツッコむ。
かといってじゃあ何を言えばいいのかも分からない。
会社をサボって訪れた殺人施設に、まさかその会社の先輩が現れるなんて想像するわけもなかった。
「ああ」
宮下さんの短い返しの中にも、俺に対してどう声をかければいいのか分からないという困惑が見て取れた。
また少しの沈黙が訪れる。お互いに目が泳ぐ。
「……お前の所にも来てたのか。あのメール」
先に口を開いたのは宮下さんだった。
何のことですか? と惚けたかったが、さすがにこの場でその反応は無理がある。
建物の外ならまだ誤魔化しは効いた。だが、受付を通ってここまで辿り着いている以上、どんな言い訳をしても白々しいだけだ。
「はい」
観念して認める。目線を上げられない。こんなに気まずい空間は今まで体験したことが無い。
ここにいるということは、「自分は人殺しです」と顔に書いているのも同じだ。
そしてそれは宮下さんも同様。この人がここに来たということは、誰かを殺しに来たということだろう。
ターゲットとして真っ先に思い当たりそうな課長は、すでに俺が殺した。ということは、宮下さんには課長以外にも殺したい人間がいたということか。
「半信半疑、いや、一信九疑くらいでここに来たんだが、ここは本当に……」
宮下さんの言葉はそこで滞った。続く問いを予想し、俺はそれに頷いて答える。
「そうか。……お前は、課長か?」
俺のターゲットのことだろう。俺はその問いにも小さく頷いて答えた。
「じゃあもう課長は……」
「死んでます」
殺しました、とは答えられなかった。
この人には人殺しだと思われたくなかった。俺の素顔ではなく、仮面だけを見ていてほしかった。
だが、もう手遅れ。宮下さんにとって、俺は人殺しな後輩。
そして俺も、これからは宮下さんのことを純粋に尊敬の眼差しで見ることが難しくなる。
いつも俺を気にかけて食事に誘ったり、一緒に遊びに連れて行ってくれた最高の先輩。自宅に招いて、俺の家族と食事を共にしたこともある。
俺の仕事上のミスも、嫌な顔一つせずにカバーしてくれていた。本当に頼りになる先輩だった。
でも、そんな宮下さんも俺と同類の仮面を被った人間だった。
昨日、宮下さんが冗談交じりに課長の事を「殺したい」と呟いた時の、あの目。本気の殺意を含んでるように見えたあの目。あれは、宮下さんの素顔の一部が表に出て来ていたんだと気付く。
俺の白状に宮下さんが何回か頷いて、「よく耐えたよ。お前は」と優しく声をかけてくれる。これから人を殺そうとしている人の声とは思えない温かさだ。
「宮下さんは誰を?」
俺は目線を上げ、意を決して訊いた。
「それは……気にしないでくれ」
俺もできることならスルーして帰りたかった。
だけどこのまま帰れば、俺は殺した相手を知られたのに宮下さんは隠し通したまま。それはフェアじゃないと思った。
そしてもう一つ気になったのが、今の宮下さんの目。はっきりとは分からないが、その目に何か俺に対しての後ろめたい感情が浮かんでいるように見えた。
俺は昔から、人と接する時に相手の顔色を窺いつつ、気分を損ねさせないように神経を使ってきたので、相手の瞳に現れる感情の変化によく気付くようになっていた。
だからもう一度訊く。
「教えてくださいよ。俺だけ自分の行いを見透かされてるのはフェアじゃないですよ」
「いや……」
宮下さんが頬を掻く。額の汗が照明の光に照らされ始めた。
「……すまん、本当に勘弁してくれないか。すまん、本当にすまん」
漂う空気に耐えかねたのか、半ば強引に宮下さんが足を踏み出した。
その悲愴な表情を見て、俺もこれ以上食らいつくことができなかった。
宮下さんがカウンターで女性とやり取りする様子を、エレベーター前から見つめる。
一瞬だけ宮下さんがチラリとこちらに顔を向けたが、すぐに女性の方へ向き直ってしまった。
胸の中にモヤモヤとした気持ちが残る。まるで叢雲のように。
俺は仕方なくその施設を後にし、大雨の中家路を急いだ。
◇
本当なら、晴々とした気持ちで明日を迎えられるはずだった。
クソ上司がいなくなったことで今までの苦痛から解放される。何の気兼ねもなく会社へ行くことができるはずだった。
しかし、まさか宮下さんもコロホを利用していて、よりにもよってあのタイミングで鉢合わせするとは。
どんな顔して出勤すればいいんだよ。人殺し同士が隣り合って座るんだぞ。
「はあ……」
自宅のリビングのソファに腰かけながら、深い溜め息をつく。そしてマイナスな思考が頭に広がっていく。
もし宮下さんが、俺の行いをバラしたら?
今日、課長が出社していないことで、今頃社内はザワついているだろう。あの人が遅刻や欠勤しているところは見たことがない。無駄に健康な人だった。
そしていずれ失踪騒ぎになる。そこで宮下さんが俺の行いをバラしたら――。
いや。大丈夫だ。たとえバラされても証拠は無いし、そもそも殺人サブスクのことについて口外するのは禁止されている。宮下さんもガイドは読んだはずだ。
おそらくコロホの運営にはとんでもなく大きいバックアップが付いている。そうでなければあんな施設作れないだろうし、法の目をかいくぐってサービスを運営することもできないだろう。
そんな巨大な闇を敵に回してまで宮下さんが俺を告発するとは思えない。
安心しろ。課長を殺したことで俺の人生が良くなることはあっても、悪くなることはない。
俺は腰を上げてキッチンに向かい、冷蔵庫の中から缶ビールを取り出した。
今日も家族は全員家を空けている。まだ昼ではあるがゆっくりお酒を飲んで、昨日までパワハラに耐え続けた自分を労おう。
夕方になって、母さんが帰ってきた。今日も友人と食事や買い物に行っていたらしい。
完全に陽が沈んだ頃に、父さんも仕事から帰宅する。
「莉久はまだ帰ってないのか?」
父さんがキッチンで手を洗いながら言った。そういえば妹がまだ帰ってきてないな。
莉久は高校生だが部活には入っておらず、独学でイラストの勉強をしている。
友達と遊びに出かけて帰りが遅くなることはたまにあるが、そういう時は必ず両親や俺に連絡を入れていた。今日は電話もメッセージも、何も受け取っていない。
「ちょっと電話してみるね」
ソファに座ってテレビを観ていた母さんがテーブルの上のスマホを取り、莉久に電話をかける。
しばらくコールを続けていたが、出る気配はない。
「映画館にでも行ってるのかもな」
父さんが言う。莉久はかなりの映画好きだ。確か今週から話題作の公開だったし、もしかしたらスマホをサイレントモードにして映画に見入っているのかもな。
俺達はとりあえず3人で夕食を取ることにした。
テーブルの上には莉久の分の食事も用意されていて、皿はそれぞれラップに包んである。
だが結局その日、莉久が帰ってくることはなかった。
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