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母の足元に、伊都は横たわっていた。
山吹色の洋装の足がむこうから現われるのを、じっと眺めていた。
彼は母の足から黒い絽布を引きだして、例のハサミでていねいに切りとった。丸めて、ふところにしまいこみ、それから、思いたったように手をのばした。
頭をなぜられた。乱れた髪を撫でつけて、感触は離れていく。
あとにはただ、静寂ばかりが残されていた。
空が青い。真夏の高い空の一画を埋めつくすように、入道雲が立っている。
伊都は手でひさしをつくって、周囲を見まわした。ためしに伊勢山皇大神宮の階段を登ってみたが、ここはなかなか悪くないようだ。
「ここからにしよっか、フク」
提げたカゴを地面へ降ろす。戸をあけ、てのひらに乗せて外へ連れだしてやると、フクは社殿を見あげて首をかしげた。ひょいっとてのひらのうえで跳ね、こちらをふりかえる。
「いいの。ほら、行きなさいよ」
たなびく髪に、風の行く先を教えられる。目を上げると、洋装の青年がたたずんでいた。
声をかけようとして、すんでのところで思いとどまる。見間違えだ、照れ笑う。青年は玉砂利を踏みながら、こちらへ近づいてくる。
「だれと間違ったのか、あててやろうか」
「よして頂戴ったら」
言って、伊都はあらためて彼を見据えた。
山吹色の厚手の上下の装いは、年中かわらないものらしい。暑苦しいこと、この上ない。
「ひさしぶりね」
挨拶に、彼は口の端を上げる。
外に出ること自体、数日ぶりだった。
母の弔いも他人まかせにして、惚けてばかりいた。若旦那がいなかったら、母はきっと無縁仏同様になっていただろう。
死を純粋に悼んでいたのは、與一くらいだ。
ズボンの隠しに両手を入れて、青年は空をあおぐ。それから、こちらにむきなおった。
「おまえ、力のしくみをわかっていたか?」
さりげない問いだった。わざと軽く訊いたのだと、わかっていた。
「いいえ?」
笑顔で応えると、彼は苦笑で返してくる。
「生きたい・死にたい、相手の願いに応じて、願うとおりのものを与え、奪いとる。
恐ろしくてならなかった。おまえのそれは、知りたくないものをも知らねばならぬ力だ」
伊都には返すことばなど存在しなかった。
いったい、いつ機を見つけたのか。
手元から藍色が飛びたった。
フクは別れも告げずに遠く去っていく。高く高く、青空を飛んでいく。その姿は見る間に小さな黒い点となった。
最後までフクを見送って、ふりかえると、青年もいなくなっていた。
伊都は、飛びたいと願った。
さきほど、家へ引き取ろうと言う若旦那の申し出をつっぱねてきた。彼はまだ伊都が異母妹であることを知らない。
ふところから手ぬぐいをとりだす。若旦那からもらった桃花の手ぬぐいだ。
目を伏せて、伊都はくちびるを寄せた。顔を近づけても、もう蜜のにおいはしない。
まぶたを開ける。しばし手ぬぐいを見つめ、フクのいない虫カゴへ放り込む。そうして、虫カゴごと置き去りにして、きびすを返す。
まっしろに輝く玉砂利を蹴散らしながら、伊都は歩く。ゆっくりと地面を踏みしめる。
ひかりにかかげた右手のむこう、はるかに夏空が広がっている。ひとあし先に旅立ったフクは、もうどこにも見えなかった。
了
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