第一話 若旦那の帰還

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第一話 若旦那の帰還

 二十世紀を目前に控え、大日本帝國は富み栄えていた。  清国を相手に戦い、勝利をおさめたのは、明治二十八年のこと。それから五年経っても、帝國は賠償金のもたらした好景気にわき、道行くひとびとの顔は明るかった。  景気がよいのは何も帝都に限った話ではない。貿易港として名高い横濱(よこはま)も、戦争を機にいっそうきらびやかに彩られていた。  その横濱に、永真(えいしん)遊郭はあった。  永真遊郭は、永楽町(えいらくちょう)真金町(まがねちょう)、ふたつの地区にまたがる県下でも有数の歓楽街である。夜ごと色づく町並みは度重なる大火による三遷を経てようやくこの地に根をおろした。  ──大きな都市ってのは、どこもかしこも明るすぎていけない。人間様には、息抜きのできる暗がりだって必要なのにね。  そう教えてくれたのは、だれだったろうか。きっと、もうこの店にはいない姐さんだ。客が途切れた隙に、伊都(いと)は凝った首をもんだ。  永真遊郭のなか、真金町側の一画に、老舗の妓楼『湊楼(みなとろう)』はあった。三遷を生き延び、港崎(みよざき)から真金町までやってきた妓楼である。なるほど、掲げられた看板はいずれの大火をも逃れた品、ずいぶんと年季が入っている。毛筆で横書きに『湊楼』と記された木目板には、妓楼の越えてきた時代がにじんでいる。  新たな足音に伊都は笑顔でふりかえった。 「どうぞお寄りくださいませ!」  年若い娘に声をかけられると、うぶな客はたじろぐ。伊都は今年で数え十三。遊郭の客は二十歳や三十路だ。妹や娘に重なるらしい。ここで生まれ育った伊都はことにかわいがられて、おひねりをいただくこともある。  おどおどする青年を楼のなかへ押しこみ、いっしょに客引きをしていた香車(やりて)に部屋の空きを確認する。あと一室。これだけ埋めれば、なかに戻れる。春先の夜空はまだ寒い。手がかじかみはじめていたところである。 (よし! さくさく終わらせてしまおう)  意気込みとしては腕まくりをしたいところだが、肌をみせるなど、伊都には許されない。ケガがあるわけでもないし、はしたないからというわけでもない。伊都の──特に右手は、他人には触れられないのだ。  視線をめぐらせ、獲物はないかと、猛禽類のように微笑みの奥で目をひからせる。  羽織姿の優男がいる。遊び慣れているのか、散歩がてらといった風情でぶらついている。  足が動く。一歩踏み出したときだった。目あての男とのあいだに横から人影が割りこんだ。大股にやってきて、目の前で立ちどまる。  おかげで、優男を見失ってしまったではないか。腹が立ったが、焦りは禁物。にこやかに会釈して、ふと人影の服装に目がとまった。  大柄な男だった。両手には白手袋。埃っぽいフロックコートと杖を左手に、右手には四角い革鞄を提げている。三つ揃いはねずみ色だ。高襟の首まわりは汗染みている。横濱でもまだめずらしい洋装、それも旅装である。  外人かと見紛うほどの隙のない装いだった。船旅帰りの洗練された紳士といったところか。  目深にかぶった帽子で顔は隠れている。伸び気味の黒髪、無精ヒゲの顎先だけは見えた。  見あげている伊都に、紳士は気がつかない。革鞄をごとりと地面におろし、空いた右手で帽子をとる。意外にも、端正な顔立ちだった。  後ろになでつけた髪はほつれ、秀でた額にかかっている。眉はきりりと一文字を書き、まなざしの力を強めている。彫りの深い目元、通った鼻筋。むすばれたくちびるは薄く、硬くかみしめているのか、色を失っていた。  湊楼の看板を仰ぐ面差しには、待ち受ける交歓に浮き足だった気配はなかった。  ──落胆。その感情がだんだんにひろがり、紳士の顔を覆いつくしていく。  眉を寄せ、顔をゆがませた。表情で、まだ二十代半ばであろうことに気付かされる。  紳士は暫時立ちつくしていたが、ゆるゆると膝を曲げ、革鞄を拾いあげる。その途中で、やっと伊都の存在に意識が向いたようだった。 「何か用か、ちび助」 (うわあ、仲良くなりたくない感じ)  とげとげしい態度だ。口許がひん曲がる。  伊都はぐっと、ことばを飲み込んだ。反目してはいけない。こんな店先で、大勢の目があるところでやらかしてしまっては、ことだ。  だが、小さな胸に秘めた決意も、次のひとことで軽くふきとんだ。  紳士は目を丸くし、心底おどろいたような顔で言ったのだ。 「……なんだ。おまえ、女か! 鶏肋(トリガラ)みたいヤツだな。胸はどこにあるんだ?」  ここで黙っていられる伊都ではなかった。 「だぁれが鶏肋よッ。そっちこそ、身ぎれいにして出直してきやがれってんだ!」  伊都は腰に手をあて、ふんぞりかえった。ケンカなら、相手になってやろうではないか。  大声を聞きつけて、香車がこちらへ飛んでくる。紳士の身なりを見るや、ふだんよりも丁寧なしぐさで詫びを入れた。 「この者は人前に出て日が浅く、まだまだ不慣れで申し訳ございません。後程、お宅へお詫びの品を届けさせましょう。失礼ですが、お名前を頂戴してもよろしいでしょうか」  「それには及ばない」と言わせたかったのだろう。相手は廓に女遊びに来た身である。この場で身許をあきらかにすることや、遊郭の人間が自宅を訪ねてくることを厭うのではないかと推察したに違いない。仲間ながら、よくもまあ、一瞬で頭のまわることである。  香車の立ちまわりに感心していると、紳士はおもむろに口を開いた。 「久良岐(くらき)将睦(まさちか)だ」  香車は耳を疑ったらしかった。紳士の顔を穴のあくほど見つめるや、血相をかえた。がばっと、平伏する勢いで頭をさげ、伊都の頭を、横から無理やり地面に向けて押しつける。 「若旦那様、不調法をお許しくださいませ」 (──若旦那!? このひとが?)  こんな男は知らない。湊楼に『若旦那』がいたことなどあったろうか。いるのは、楼主たる大旦那だけではなかったのか。  解放されて、頭をあげる。目線の先で不敵に笑い、紳士──若旦那は顎をあげ、ふん、と見下すようにこちらへ視線をよこした。 「謝るより先に言うべきことがあるだろう。八年ぶりの帰還だぞ?」  色も声も失って、香車はただただ低頭するばかり。茶番劇はいつまでも続いていく。 (お帰りなさいませ、バカ旦那サマ)  こころのなかでの伊都のつぶやきは、だれに聞かれることもなく宵闇へと消えていった。
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