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嫌悪感をふりはらう。この男を守るのではない。伊都が守るのは湊楼だ。家族から売られてきて、ここにしか居場所のない女たちだ。
不安がないわけではない。しかし、助けるのだ、是が非でも命を救わねばならない。
こころの声で話しかけることもしなかった。
意識を集中していく。からだのうちが無になる。脇へたらした腕の重みがわからなくなる。まばたきを忘れて、じっと男のふくれた腹を注視する。
若旦那の努力のかいもなく、男には呼吸がなかった。胸も腹も上下することはない。
足先までぐっと視線を流し、男の足のむこうにあるものに、伊都は戦慄した。
たたずんでいるのは、影のない洋装の両足だった。夏に着るものとも思えない厚手の羊毛で仕立てられている灰色のズボン。
顔を動かさず、目だけを動かす。山吹色のジャケットが視界の端に入った。
いつのまにそこにいたのか。
昨晩の男だけではない。洋装の美青年まで、室内に身を置いている。それなのに、だれも青年を気にするそぶりを見せてはいない。
(見えているのは、あたしだけよね……?)
青年は伊都に気付くようすもない。男の足もとへかがみこんで、何かを探すように片腕を肩までさしいれる。
はじめは、どこを探っているのか判別がつかなかった。見つめ続けて、やがて、腕ごと畳に沈んでいるのだと悟る。
座っていなければ、膝がふるえてしまっただろう。伊都はつとめて平静をよそおう。
こちらのことはいまだ気取られてはいない。このままで、どうにかやり過ごすのだ。
母にも、若旦那にも、知られてはならない。ふたりが知れば、この青年も知ることになる。
伊都は中年男に右手をかざす。からだの端々から熱が集まってくるのを感じとりながら、青年のようすを確かめずにはいられない。恐怖を覚えながらも、強く興味をひかれる。
(いったいあのひとは何を探しているの?)
井戸の底でもさらうように手を動かしていた青年が動きをとめた。見つけたのだ。慎重なしぐさで引き揚げていく。
(黒い、布?)
僧侶の着る夏物の墨染の絽に似ていた。夏ゆえにそのように目に映ったのかもしれない。
青年は、むこうの透けた布地を頭の上まで引いて、ぴんと張る。ジャケットの懐から大振りな裁ちバサミを取りだし、静かに構える。
厭な音を立てて、刃がひらく。布地の付け根──中年男のかかとへ水平にハサミが入る。
(あの布、切らせちゃ、ダメだ)
直感だった。
あれはきっと、大切なものだと思った。
(盗らせて、良いわけがない!)
目を伏せ、深呼吸する。もう一度、からだの力を抜く。熱を依りまとめ、固め込む。
奉納舞の巫女が神懸かるがごとく、ぐらりと上体がゆれだす。ゆれるままに、伊都は男の腹に手をついた。
布を裁つ音が耳に入る。いつしか止めていた息をすべて吐ききる。
(解き放て。命よ戻れ、欧太郎のように!)
「お願い、行って──ッ」
声が出ていた。ぬるい風がぶわりと伊都と中年男とをとりまき、いったんとどまる。え? と、不安をおぼえて目をあけた伊都の頬をなぜて、風が渦巻く。
一瞬の後だ、中年男の腹から生じた突風に、伊都は己もはじき飛ばされていた。何者かに抱きとめられて、しがみつき、風を凌ぐ。
しっとりと汗にしめったシャツの胸。ふりあおぐと、驚いた顔で若旦那が見おろしている。その額にかかる前髪は、揺れてもいない。
見れば、母もだ、びっくりはしているが、薄い着物の端ですら、なびいていない。
風を受けているのは、ただ伊都のみだった。長い風に吹かれて顔にへばりつく髪を、若旦那の指がつまみ、よけてくれる。そこで思い至って、伊都は青年をふりかえった。
見なければよかったと思った。
青年の姿は、中年男の傍にはなかった。
壁にもたれるように腰を落としていた。ハサミは手から離れて見当たらない。痛そうにうめいて腰をさすりながら、彼は顔をあげた。
(飛ばされたんだ、あのひとも)
その意味に、伊都は呆然と青年を見つめた。
伊都はいまや、若旦那や母とではなく、あの影のない青年と、同じ風を感じていた。
(……いったい、いつから?)
青年はうめき、咳き込む。口元を押さえ、瞠目した。両手を目の高さにかざしている。手の甲や手首を確かめていく。真っ赤に焼けただれ、肉ののぞいたてのひらが見えた。
肉の焦げたにおいがした。吐きそうになる。恐怖と吐き気で、うっと、のどが鳴った。
青年の肩が、ぴくりとゆれた。こちらを見やったうつくしい相貌は、はっきりと歪んでいた。強いまなざしが伊都を捉え、切り刻む。
まるで、化け物でも見るような視線だった。
伊都の二の腕をささえながら、若旦那が青年の腰かける壁へ目をむける。気配でわかる。とまどいまで伝わる。母もだ。やはり、見えないのだ。青年は、この世ならぬ者なのだ。
我が身は母や若旦那とは同じ場所にはないのだ。事実が、じんわりと胸に沁みていく。
(いっしょに、いるつもりだったのに)
かはっ。
中年男がむせかえった。からだが跳ねる。
若旦那は伊都のてぬぐいを拾い、男の口元を拭いてやる。肩を叩く。母から名を聞き、呼びかけた。むにゃむにゃと応答がある。
母が安堵の声をあげた。
障子戸を開け放ったのは、若旦那だった。戸を押さえていた茅野が不安そうにふりかえる。若旦那は茅野に命じて医師を迎えにいかせた。近くにいた体格のいい下男を呼びこむ。中年男を別室へ運んで休ませるらしい。
──伊都は、周囲の歓声から置き去りにされていた。ひとり倒れ込んでいると、騒ぎのむこうで、青年がすっと立ちあがった。落ちていたハサミを拾い、懐へとしまいこむ。
(待って)
声も出ず、起きあがることもできない。欧太郎のときよりも消耗の度合いが激しい。
目で追う。伊都への興味も失せたのか、青年は一瞥をくれたのち、群がる野次馬のなかに消えていってしまう。
(待って、お願い……!)
野次馬のなかで腕をあげ、鳥打ち帽をかぶる背がかろうじて見えた。
(イヤ、見失ってしまう!)
転がった伊都を助け起こす手があった。
期待したあたたかな手ではない。繊細なつめたい手が腕に触れる。心配そうに、母が顔をのぞきこんでくる。
「何か、居るのね?」
(そう、山吹色のジャケットを着たうつくしい青年が、いま、そこへ出て行ったの)
もしも声が出たら、そう言ったろうか。
伊都は否定する。相手に見えやしないものを伝えて、何になる? どうやってあとを追ってもらうのか、目にも映らないのに!
きっと、なんでもないよと言っただろう。
廊下へ目を転じる。人混みのなかに、鳥打ち帽の先も見えない。
(いかないでよ、莫迦。あたし、聞きたいことがあるのよ。たくさんあるのに)
……ひっく。
泣き声は素直に出る。嗚咽に身をゆらす。こころなしか、まばたきがゆるやかになる。
また、頭のうえに暗い影が差した。頭を撫でられる。てのひらがこんなにあたたかいのに、涙で顔をみることができない。
(母さん──)
まぶたの裏に涙を閉じこめ、暗がりのなかひとり、伊都は眠りに落ちた。
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