第三話 死に神の青年

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 嫌悪感をふりはらう。この男を守るのではない。伊都が守るのは湊楼だ。家族から売られてきて、ここにしか居場所のない女たちだ。  不安がないわけではない。しかし、助けるのだ、是が非でも命を救わねばならない。  こころの声で話しかけることもしなかった。  意識を集中していく。からだのうちが無になる。脇へたらした腕の重みがわからなくなる。まばたきを忘れて、じっと男のふくれた腹を注視する。  若旦那の努力のかいもなく、男には呼吸(いき)がなかった。胸も腹も上下することはない。  足先までぐっと視線を流し、男の足のむこうにあるものに、伊都は戦慄した。  たたずんでいるのは、影のない洋装の両足だった。夏に着るものとも思えない厚手の羊毛(ウール)で仕立てられている灰色のズボン。  顔を動かさず、目だけを動かす。山吹色のジャケットが視界の端に入った。  いつのまにそこにいたのか。  昨晩の男だけではない。洋装の美青年まで、室内に身を置いている。それなのに、だれも青年を気にするそぶりを見せてはいない。 (見えているのは、あたしだけよね……?)  青年は伊都に気付くようすもない。男の足もとへかがみこんで、何かを探すように片腕を肩までさしいれる。  はじめは、どこを探っているのか判別がつかなかった。見つめ続けて、やがて、腕ごと畳に沈んでいるのだと悟る。  座っていなければ、膝がふるえてしまっただろう。伊都はつとめて平静をよそおう。  こちらのことはいまだ気取られてはいない。このままで、どうにかやり過ごすのだ。  母にも、若旦那にも、知られてはならない。ふたりが知れば、この青年も知ることになる。  伊都は中年男に右手をかざす。からだの端々から熱が集まってくるのを感じとりながら、青年のようすを確かめずにはいられない。恐怖を覚えながらも、強く興味をひかれる。 (いったいあのひとは何を探しているの?)  井戸の底でもさらうように手を動かしていた青年が動きをとめた。見つけたのだ。慎重なしぐさで引き揚げていく。 (黒い、布?)  僧侶の着る夏物の墨染の絽に似ていた。夏ゆえにそのように目に映ったのかもしれない。  青年は、むこうの透けた布地を頭の上まで引いて、ぴんと張る。ジャケットの懐から大振りな裁ちバサミを取りだし、静かに構える。  厭な音を立てて、刃がひらく。布地の付け根──中年男のかかとへ水平にハサミが入る。 (あの布、切らせちゃ、ダメだ)  直感だった。  あれはきっと、大切なものだと思った。 (盗らせて、良いわけがない!)  目を伏せ、深呼吸する。もう一度、からだの力を抜く。熱を依りまとめ、固め込む。  奉納舞の巫女が神懸かるがごとく、ぐらりと上体がゆれだす。ゆれるままに、伊都は男の腹に手をついた。  布を裁つ音が耳に入る。いつしか止めていた息をすべて吐ききる。 (解き放て。命よ戻れ、欧太郎のように!) 「お願い、行って──ッ」  声が出ていた。ぬるい風がぶわりと伊都と中年男とをとりまき、いったんとどまる。え? と、不安をおぼえて目をあけた伊都の頬をなぜて、風が渦巻く。  一瞬の後だ、中年男の腹から生じた突風に、伊都は己もはじき飛ばされていた。何者かに抱きとめられて、しがみつき、風を凌ぐ。  しっとりと汗にしめったシャツの胸。ふりあおぐと、驚いた顔で若旦那が見おろしている。その額にかかる前髪は、揺れてもいない。  見れば、母もだ、びっくりはしているが、薄い着物の端ですら、なびいていない。  風を受けているのは、ただ伊都のみだった。長い風に吹かれて顔にへばりつく髪を、若旦那の指がつまみ、よけてくれる。そこで思い至って、伊都は青年をふりかえった。  見なければよかったと思った。  青年の姿は、中年男の傍にはなかった。  壁にもたれるように腰を落としていた。ハサミは手から離れて見当たらない。痛そうにうめいて腰をさすりながら、彼は顔をあげた。 (飛ばされたんだ、あのひとも)  その意味に、伊都は呆然と青年を見つめた。  伊都はいまや、若旦那や母とではなく、あの影のない青年と、同じ風を感じていた。 (……いったい、いつから?)  青年はうめき、咳き込む。口元を押さえ、瞠目した。両手を目の高さにかざしている。手の甲や手首を確かめていく。真っ赤に焼けただれ、肉ののぞいたてのひらが見えた。  肉の焦げたにおいがした。吐きそうになる。恐怖と吐き気で、うっと、のどが鳴った。  青年の肩が、ぴくりとゆれた。こちらを見やったうつくしい相貌は、はっきりと歪んでいた。強いまなざしが伊都を捉え、切り刻む。  まるで、化け物でも見るような視線だった。  伊都の二の腕をささえながら、若旦那が青年の腰かける壁へ目をむける。気配でわかる。とまどいまで伝わる。母もだ。やはり、見えないのだ。青年は、この世ならぬ者なのだ。  我が身は母や若旦那とは同じ場所にはないのだ。事実が、じんわりと胸に沁みていく。 (いっしょに、いるつもりだったのに)  かはっ。  中年男がむせかえった。からだが跳ねる。  若旦那は伊都のてぬぐいを拾い、男の口元を拭いてやる。肩を叩く。母から名を聞き、呼びかけた。むにゃむにゃと応答がある。  母が安堵の声をあげた。  障子戸を開け放ったのは、若旦那だった。戸を押さえていた茅野が不安そうにふりかえる。若旦那は茅野に命じて医師を迎えにいかせた。近くにいた体格のいい下男を呼びこむ。中年男を別室へ運んで休ませるらしい。  ──伊都は、周囲の歓声から置き去りにされていた。ひとり倒れ込んでいると、騒ぎのむこうで、青年がすっと立ちあがった。落ちていたハサミを拾い、懐へとしまいこむ。 (待って)  声も出ず、起きあがることもできない。欧太郎のときよりも消耗の度合いが激しい。  目で追う。伊都への興味も失せたのか、青年は一瞥をくれたのち、群がる野次馬のなかに消えていってしまう。 (待って、お願い……!)  野次馬のなかで腕をあげ、鳥打ち帽をかぶる背がかろうじて見えた。 (イヤ、見失ってしまう!)  転がった伊都を助け起こす手があった。  期待したあたたかな手ではない。繊細なつめたい手が腕に触れる。心配そうに、母が顔をのぞきこんでくる。 「何か、居るのね?」 (そう、山吹色のジャケットを着たうつくしい青年が、いま、そこへ出て行ったの)  もしも声が出たら、そう言ったろうか。  伊都は否定する。相手に見えやしないものを伝えて、何になる? どうやってあとを追ってもらうのか、目にも映らないのに!  きっと、なんでもないよと言っただろう。  廊下へ目を転じる。人混みのなかに、鳥打ち帽の先も見えない。 (いかないでよ、莫迦。あたし、聞きたいことがあるのよ。たくさんあるのに)  ……ひっく。  泣き声は素直に出る。嗚咽に身をゆらす。こころなしか、まばたきがゆるやかになる。  また、頭のうえに暗い影が差した。頭を撫でられる。てのひらがこんなにあたたかいのに、涙で顔をみることができない。 (母さん──)  まぶたの裏に涙を閉じこめ、暗がりのなかひとり、伊都は眠りに落ちた。
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