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こころが決まれば、食事を終えてからの行動は早かった。風呂の残り湯をもらい、お使いにいける程度には身支度を調えておく。
(まずはフクのようすを見て、虫取り網と虫かごを借りて、)
すべきことを指折り数えながら階段を降りていく。姐さんがたは寝ている時間だ。だれともすれ違わぬうちに、伊都は一階の若旦那の部屋にたどりつこうとしていた。
ことわりなく立ち入るのは構わないだろう。世話をしに来いと言うのだから、許しも何もあったものではない。だが、長居は無用だ。本人に鉢合わせるのも勘弁していただきたい。
(いまの時間帯は、普段なら出かけているもの。出くわさないで済むわよ、きっと)
それに。ある事実に伊都は思いいたる。
昨日、若旦那は人力車の車夫を呼び止めて、今日の午後にと告げていなかったろうか。風呂に入ったり着替えたりで、日はすでに正午を過ぎた。なかなかいいころあいではないか。
「鶏肋、鶏肋うるさいんだもんな。二の腕やおしりのお肉はちゃんとあるんだぞー」
肝心なところのお肉については、ひとりごと故あえて言及せず! 伊都はからりと戸を引きあける。そうして、立ちつくした。
はてさて、ここは若旦那の部屋だったはずだ。伊都は凍りつきながら心中で確認する。
部屋の中央にむこう向きで立つ男がある。背中の浅黒い肌が目にまぶしい。無駄な肉もなく肩から腰まで、堅くすっきりとした線を描いている。腰から下は、洋装の薄手のズボンを履いている。と、気づいた男がこちらをふりかえらんとする。
「……っ、きゃあ!」
すんでのところでうしろ手に戸を閉め、息をととのえる。胸に手をあてる。早鐘を打っているのが、周囲に響くようで恥ずかしい。
室内の足音が近づいてくる。戸に手がかかった。伊都は必死に外から戸を押さえつける。
「おい、何の真似だ」
「なんでもないっ、なんでもないです!」
「お、ま、え、なあ! 声もかけずにひとの部屋に入ってきて『きゃあ』?」
部屋のうちと外とで引っ張りあいになる。腰を低く落とし、半ば壁に貼りついて、伊都は指先に全体重をかける。
ぐぐぐ、引かれて、こぶしひとつぶん、からだが引きずられた。
「俺に会いに来たんじゃないのか」
「だ、だれが! フクに会いに来たのよ!」
「フク?」
「ツバメの仔っ。名前をつけてやったの!」
頭ひとつぶん開いたのを持ちこたえる。
「ヤ、来ないでったら!」
「知るか」
勢いよく戸が開く。投げ出されて、伊都は廊下に軽く膝をついた。
「いったぁい! 何よ、もうッ」
冗談で大げさに痛がってみたものの、このくらいならば、打ち身にもならないはずだ。伊都は膝をついたまま、上半身だけでうしろをふりあおぎ、軽くにらみつけてみる。
やはりと言おうか、若旦那は意にも介していなかった。あきれたようにこちらを見下ろしている。戸口の柱に利き腕を預けて立つ姿は、服装もあいまって、異人さんのようだ。
開襟の白い長袖シャツは前がはだけ、肌があらわになっている。着替えの途中だったのだ、ボタンをしまいまで閉じる余裕もなかったのだろう。目を背けると、若旦那はきびすを返し、悠然と部屋の奥へひっこんでいった。
「鶏肋、からだはどんな按配だ」
すこし遠くから、大きな声で尋ねられる。伊都は腰をあげ、同様に声をはりあげる。
「もう平気! こんなの、寝れば治るもの」
部屋の戸口に不用意に近づいて、ぬっとあらわれた黒い影にたたらを踏む。
一歩下がって、黒いと見えたのが若旦那の胸元だと気づく。ほんの数瞬のうちに、若旦那はすっかり身支度をととのえていた。
長袖シャツのうえに三つ揃いのベストを羽織ってはいるが、上着は手にもったままだ。さすがにこの陽気では、上を着る気にはなれないのだろう。現に、胸元をだらしなく開けたばかりか、その襟元を指でつまんで、ぱたぱたと服のなかに空気を送り込んでさえいる。
「どこへ出かけるの?」
よそ行きの出で立ちに、つい行き先を聞いた伊都へ、若旦那は流し目をくれる。
「おまえも来るか?」
「だから、どこへ」
問われて、若旦那はあたりをはばかるようなしぐさをみせた。
首を巡らす。中庭を挟んだ二階の縁を見上げ、ぴたりと動きを止める。伊都も気になって見上げてみて、おやっと思った。
淡い紫の寝間着が見える。女だ。軒に視界をさえぎられ、膝までしか見えないが、あの色を身につける姐さんはひとりしか知らない。
「茅野姐さん……?」
こんな時間に起きているひとだったろうか。いつもならば、まだ夢の中にあるはずだ。
と、寝たりなかったか、茅野がふらついた。
「あっ!」
(危ない、落ちる!)
茅野は中庭の向こうの棟の二階だ。手など伸ばしたところで届きもしないのに、伊都はとっさに身を乗りだそうとしていた。
「莫迦、やめろ」
若旦那は低くたしなめる。腕一本で軽々と押さえこまれてしまう。
のばしかけた手は、ひとまわり大きなてのひらに包まれた。無駄だと、行動で示されただけだとはわかる。それでも、こうしてさわられるのがなんだか恥ずかしくてたまらない。耳のさきまでぞわぞわする。
若旦那の手をふりはらって、伊都は胸元に我が手をかかえこんだ。あんまり勢いよく飛び退いたものだから、欄干が腿の裏へ触れる。
端近まで距離をおかれたのが気に障ったか、若旦那は一瞬険しい表情をした。
(そうだ、茅野姐さんは?)
ふりむいて、伊都は二階の人影を確かめた。
茅野は、日に溶けてしまいそうだった。白い肌のなか、暗い色の瞳だけが、底なしの淵でものぞいているように、こちらを見ている。
目が、合った。
きゅうっと、喉が閉じるのを感じた。茅野は嫣然と笑う。ふだんの下町気質が嘘のようだ。あでやかすぎるほどの風情だった。
ゆるうりと、寝間着の淡い紫が揺れている。伊都は息をとめ、自身に投げられた微笑みに身を震わせた。どこぞの姫君のごときしぐさで、茅野は中庭に背を向ける。
(姐さん――?)
いぶかしさを胸に、隣へ目を移す。若旦那もまた、伊都同様、茅野を見たらしかった。
思いのほかにこわばった顔だった。茅野はもういないというのにしばらく空をにらんでいたが、だんだんに表情がゆるんだ。視線を落とし、伊都にむきなおる。
「行くか。そろそろころあいだろう」
「人助けなら、行かないわよ」
めずらしくやわらかな笑みを口の端に乗せ、わかっているというように首をふる。
「氷菓子か蜜豆なら?」
「行く! 甘いものなら、いくらでもっ!」
言ってから、何か裏があるのではないかと不安になる。顔に出たのだろう。若旦那はすこし不機嫌そうにした。
「今朝の礼だ。素直に受け取れ」
「受け取りますとも、もちろん両方おごってくれるんでしょ?」
「『か』だ、『か』。いくら鶏肋でもふたつは食い過ぎだ」
「甘いものに食べ過ぎなんてあるもんですか! 今朝だけでなくて、昨日の欧太郎のぶんもって話なら、ふたつでもいいでしょ?」
食い下がった伊都に折れたらしい。若旦那はひとつ大きく嘆息し、さっさかと玄関へと歩き出す。小走りに追うと、あきれ果てたような一瞥をくれた。
「甘味はついでだ、最後までつき合えよ」
「はいはいはーいっ」
甘いものにつられて、こころも声音も浮き立ってしまう。軽やかな足取りの伊都に、若旦那はもう一度、ため息をついていた。
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