第四話 蝶の遊ぶ籠

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 こころが決まれば、食事を終えてからの行動は早かった。風呂の残り湯をもらい、お使いにいける程度には身支度を調えておく。 (まずはフクのようすを見て、虫取り網と虫かごを借りて、)  すべきことを指折り数えながら階段を降りていく。姐さんがたは寝ている時間だ。だれともすれ違わぬうちに、伊都は一階の若旦那の部屋にたどりつこうとしていた。  ことわりなく立ち入るのは構わないだろう。世話をしに来いと言うのだから、許しも何もあったものではない。だが、長居は無用だ。本人に鉢合わせるのも勘弁していただきたい。 (いまの時間帯は、普段なら出かけているもの。出くわさないで済むわよ、きっと)  それに。ある事実に伊都は思いいたる。  昨日、若旦那は人力車の車夫を呼び止めて、今日の午後にと告げていなかったろうか。風呂に入ったり着替えたりで、日はすでに正午を過ぎた。なかなかいいころあいではないか。 「鶏肋、鶏肋うるさいんだもんな。二の腕やおしりのお肉はちゃんとあるんだぞー」  肝心なところのお肉については、ひとりごと故あえて言及せず! 伊都はからりと戸を引きあける。そうして、立ちつくした。  はてさて、ここは若旦那の部屋だったはずだ。伊都は凍りつきながら心中で確認する。  部屋の中央にむこう向きで立つ男がある。背中の浅黒い肌が目にまぶしい。無駄な肉もなく肩から腰まで、堅くすっきりとした線を描いている。腰から下は、洋装の薄手のズボンを履いている。と、気づいた男がこちらをふりかえらんとする。 「……っ、きゃあ!」  すんでのところでうしろ手に戸を閉め、息をととのえる。胸に手をあてる。早鐘を打っているのが、周囲に響くようで恥ずかしい。  室内の足音が近づいてくる。戸に手がかかった。伊都は必死に外から戸を押さえつける。 「おい、何の真似だ」 「なんでもないっ、なんでもないです!」 「お、ま、え、なあ! 声もかけずにひとの部屋に入ってきて『きゃあ』?」  部屋のうちと外とで引っ張りあいになる。腰を低く落とし、半ば壁に貼りついて、伊都は指先に全体重をかける。  ぐぐぐ、引かれて、こぶしひとつぶん、からだが引きずられた。 「俺に会いに来たんじゃないのか」 「だ、だれが! フクに会いに来たのよ!」 「フク?」 「ツバメの仔っ。名前をつけてやったの!」  頭ひとつぶん開いたのを持ちこたえる。 「ヤ、来ないでったら!」 「知るか」  勢いよく戸が開く。投げ出されて、伊都は廊下に軽く膝をついた。 「いったぁい! 何よ、もうッ」  冗談で大げさに痛がってみたものの、このくらいならば、打ち身にもならないはずだ。伊都は膝をついたまま、上半身だけでうしろをふりあおぎ、軽くにらみつけてみる。  やはりと言おうか、若旦那は意にも介していなかった。あきれたようにこちらを見下ろしている。戸口の柱に利き腕を預けて立つ姿は、服装もあいまって、異人さんのようだ。  開襟の白い長袖シャツは前がはだけ、肌があらわになっている。着替えの途中だったのだ、ボタンをしまいまで閉じる余裕もなかったのだろう。目を背けると、若旦那はきびすを返し、悠然と部屋の奥へひっこんでいった。 「鶏肋、からだはどんな按配だ」  すこし遠くから、大きな声で尋ねられる。伊都は腰をあげ、同様に声をはりあげる。 「もう平気! こんなの、寝れば治るもの」  部屋の戸口に不用意に近づいて、ぬっとあらわれた黒い影にたたらを踏む。  一歩下がって、黒いと見えたのが若旦那の胸元だと気づく。ほんの数瞬のうちに、若旦那はすっかり身支度をととのえていた。  長袖シャツのうえに三つ揃いのベストを羽織ってはいるが、上着は手にもったままだ。さすがにこの陽気では、上を着る気にはなれないのだろう。現に、胸元をだらしなく開けたばかりか、その襟元を指でつまんで、ぱたぱたと服のなかに空気を送り込んでさえいる。 「どこへ出かけるの?」  よそ行きの出で立ちに、つい行き先を聞いた伊都へ、若旦那は流し目をくれる。 「おまえも来るか?」 「だから、どこへ」  問われて、若旦那はあたりをはばかるようなしぐさをみせた。  首を巡らす。中庭を挟んだ二階の縁を見上げ、ぴたりと動きを止める。伊都も気になって見上げてみて、おやっと思った。  淡い紫の寝間着が見える。女だ。軒に視界をさえぎられ、膝までしか見えないが、あの色を身につける姐さんはひとりしか知らない。 「茅野姐さん……?」  こんな時間に起きているひとだったろうか。いつもならば、まだ夢の中にあるはずだ。  と、寝たりなかったか、茅野がふらついた。 「あっ!」 (危ない、落ちる!)  茅野は中庭の向こうの棟の二階だ。手など伸ばしたところで届きもしないのに、伊都はとっさに身を乗りだそうとしていた。 「莫迦、やめろ」  若旦那は低くたしなめる。腕一本で軽々と押さえこまれてしまう。  のばしかけた手は、ひとまわり大きなてのひらに包まれた。無駄だと、行動で示されただけだとはわかる。それでも、こうしてさわられるのがなんだか恥ずかしくてたまらない。耳のさきまでぞわぞわする。  若旦那の手をふりはらって、伊都は胸元に我が手をかかえこんだ。あんまり勢いよく飛び退いたものだから、欄干が腿の裏へ触れる。  端近まで距離をおかれたのが気に障ったか、若旦那は一瞬険しい表情をした。 (そうだ、茅野姐さんは?)  ふりむいて、伊都は二階の人影を確かめた。  茅野は、日に溶けてしまいそうだった。白い肌のなか、暗い色の瞳だけが、底なしの淵でものぞいているように、こちらを見ている。  目が、合った。  きゅうっと、喉が閉じるのを感じた。茅野は嫣然と笑う。ふだんの下町気質が嘘のようだ。あでやかすぎるほどの風情だった。  ゆるうりと、寝間着の淡い紫が揺れている。伊都は息をとめ、自身に投げられた微笑みに身を震わせた。どこぞの姫君のごときしぐさで、茅野は中庭に背を向ける。 (姐さん――?)  いぶかしさを胸に、隣へ目を移す。若旦那もまた、伊都同様、茅野を見たらしかった。  思いのほかにこわばった顔だった。茅野はもういないというのにしばらく空をにらんでいたが、だんだんに表情がゆるんだ。視線を落とし、伊都にむきなおる。 「行くか。そろそろころあいだろう」 「人助けなら、行かないわよ」  めずらしくやわらかな笑みを口の端に乗せ、わかっているというように首をふる。 「氷菓子(アイスクリン)か蜜豆なら?」 「行く! 甘いものなら、いくらでもっ!」  言ってから、何か裏があるのではないかと不安になる。顔に出たのだろう。若旦那はすこし不機嫌そうにした。 「今朝の礼だ。素直に受け取れ」 「受け取りますとも、もちろん両方おごってくれるんでしょ?」 「『か』だ、『か』。いくら鶏肋でもふたつは食い過ぎだ」 「甘いものに食べ過ぎなんてあるもんですか! 今朝だけでなくて、昨日の欧太郎のぶんもって話なら、ふたつでもいいでしょ?」  食い下がった伊都に折れたらしい。若旦那はひとつ大きく嘆息し、さっさかと玄関へと歩き出す。小走りに追うと、あきれ果てたような一瞥をくれた。 「甘味はついでだ、最後までつき合えよ」 「はいはいはーいっ」  甘いものにつられて、こころも声音も浮き立ってしまう。軽やかな足取りの伊都に、若旦那はもう一度、ため息をついていた。
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