第四話 蝶の遊ぶ籠

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 茶屋に寄り蜜豆を楽しみ、町売りから氷菓子を買って涼を取る。滅多に味わえない甘味にたちまちごきげんになった伊都を皮肉って、若旦那は言う。 「安いものだな。氷菓子なんざ、銀座で食えば二十銭はくだらないというのに」  町売りの氷菓子は一銭そこそこだった。伊都は目をむいて、手のなかの器をみつめた。若旦那はいつになく笑う。 「いまに横濱にも良い店ができる。そうしたら、また連れていってやろうか」  伊都は首を左右にふる。 「そのころには、あたしは籠の鳥よ。あなたでなくて、花代払ってくれそうなお客さんにおねだりして取り寄せてもらうわ」  含みもなく笑いながら言ったことばだったが、若旦那は声を失ったようだった。 (……変なの。昼に会ってからずっとおかしい。妙に優しいし)  融ける前にと、せっせと手を動かし、器をカラにする。町売りに器を返すのを見計らっていたのだろう。若旦那はいままでとは違う方向へ足をむけた。否、彼にとってはこれがほんとうの用事だったのだ。現に、若旦那は蜜豆も氷菓子もいっさい口にはしていない。 (甘いの、苦手だった? わざわざ、あたしにつきあってた?) 「若旦那、待って」  考えごとをしながらでは追いつけない。歩調をゆるめてもらおうと声をかけたが、足はいっこうに遅くならない。  規則的な革靴の音が石畳に響く。むこうをむいたっきりとはいえ、聞こえていないわけではないだろう。伊都は置き去りにされるような心地がした。うつむきがちになる。さらに歩みが遅れた。  息があがる。下駄が石畳にあたって騒々しい。鼻緒がすれて、足が痛い。  走るほどの距離があいた。ふたりのあいだを通行人が横切るたび、若旦那の背が隠れる。身軽な洋装の男と和装の少女だ。背丈も頭ふたつみっつ違うのだ。歩幅が同じはずがない。  五人目が通ったところで、伊都は諦めた。立ち止まる。若旦那は遠ざかる。気づかないのか。悲しくなって、その場にしゃがみこむ。  人の足が脇を過ぎる。人波をかき分け、洋装の足は伊都の前までやってきて、止まった。 「……おい、泣いているのか?」 「まさか! 鼻緒がすれるから、なんとかしようと思っただけよ」  気丈に言ったのに、若旦那はかがみこむ。 「歩けるか?」 「平気」  無意識に足の甲にさわられるのを避けた。若旦那の指は空を掠める。  膝をつきかけた体勢から、若旦那は面だけをあげる。自分の影のなかにおさまる彼と目が合って、胸がさわぐ。伊都はこぼれそうだった涙をなんとか仕舞いこむ。声のふるえをおさえようと、奥歯をかむ。 「……あ、歩けるわよ、まだ切れてはいないもの。あなた、随分せっかちに歩くのねっ」  膝に手をおいて、若旦那はぐっと立ちあがる。ことばもなく、伊都の手をとった。背を向けて歩きだしたとたんに、うしろの伊都がひっぱられてつんのめった。さすがに気づいて、歩調をゆるめる。  ちまちまとした歩みにあわせて、若旦那は牛歩のように地面を踏みしめる。人波から守るように伊都を背にかばい、先へ進んでいく。 (──しまった、右手)  若旦那が引く手が右だと思い至ったのは、老松町にさしかかったあたりだ。右に伊勢山皇大神宮をいただき、野毛の切り通しを行くのかと思ったが、若旦那は不意に右へそれた。  切り通しと十字に交わる野毛坂をすこしだけ下り、さらに右の脇道へ。家並みのあいだを通る細い路地へと入っていく。 「若旦那、いけない」  引き留め、ふりはらおうとする。革靴をならして立ち止まり、若旦那は半身ふりかえる。  力を入れているそぶりは見せないのに、どうも伊都ばかり身をよじっている。そのさまを見て、若旦那は苦しそうな笑みを浮かべた。 「悪かった」 「そう思うのなら、離しなさいよ!」  不安に声を荒げる。若旦那は手を離さない。 「──もう、だれにも触れさせない」 「へっ?」 (だれにもって。どういうこと……?)  じわりとにじんでくる期待を、次の表情で根こそぎ捨て去った。聞き違いかと見つめ返す伊都の視線をまっすぐに跳ね返し、若旦那は路地にたたずむ。  笑顔はない。厳しい表情だった。なにごとかを悔いるように、天を仰ぎ、くちびるを引き結ぶ。甘さなど、どこにもなかった。 (期待なんてしない。期待したら辛くなる) 「悪かった、どうかしていた。ひとの命を救えだなどと、十三の娘には荷が勝ちすぎだ」  ざくり。一太刀、胸に入った。身構えていたのに避けられなかった。だが、続くことばにまた、潰されたはずの期待が頭をもたげる。 「……ひとを助けて、泣くとは思わなかった。俺の私利私欲のために、おまえの魂まで切り売りさせたと気づいた」  見つめあう。真摯な表情に目を奪われる。先に視線を外したのは、伊都のほうだった。 (もう止して。そんなこと、口にしないで)  拒みとおすように目をふせる。  若旦那が口をひらく気配に、両手で耳をふさぎたくてしかたがなかった。それなのに、右手はあたたかな手に囚われたままだ。  伊都はうつむいたまま、口の端をあげた。心底、莫迦にしたような声音を作る。 「自惚れないでちょうだい。だれが、あなたのためになんか働くものですか」  期待を自分の手で打ちこわす。だれにむけられた科白か、いったいだれを莫迦にしているのか、口にした伊都が一番わかっていた。 (若旦那が、あたしのことなんか気遣うわけがない。何か裏があるんだ、きっとそうだ)  思いこもうとし、重ねて、ことばを紡ごうとした、そのときだった。 「あらぁ、ぼっちゃんじゃございんせんか。おひさしぶりでありんすぇ」  すっとんきょうな調子の男の声がふたりの会話に割り込んだ。  若旦那がぱっと振り向く。ぽかんとして、伊都も声のしたほうを確かめた。  下り坂の路地の左に、勾配のせいかいまにも崩れそうな木造板葺きの平屋が続いている。そのひとつの間口から、濃紫ののれんを手で脇へやりつつ、痩身の男が笑顔をみせていた。  胸に達する長い髪を首の脇でくくり、大きな丸眼鏡をかけている。眼鏡のせいで年齢はわからない。若旦那よりも年上であろうことは、ことばづかいからどうにか推し量れる。  肩幅は広く、肩先は骨張っている。筒袖は垢じみており、裄の長さが足りないように思われた。かかげた腕は筋張って、胸にも肉はない。あばらが浮いて、さながら洗濯板のようなありさまであるのが着物のうえからもうかがわれる。一歩外へ踏み出した足許、なれた袴は継ぎだらけで毛羽立っていた。 (なんで廓ことばなの? 男のひとなのに) 「さ、お入りなんし。お待ちしていんした」  一時のふざけた口調ではなかったらしい。男はなおも廓ことばを口にする。半身を引いて、ふたりを家のなかへとうながした。  若旦那は伊都を気にしながらも、口にしかけていたことばを飲みこんだ。大股に近づいて、のれんをくぐっていってしまう。のれんがめくれて、奥がちらりとのぞいた。ひどく暗い部屋だ。この路地もたいがい薄暗いが、明りもないように見えた。  長髪の男がにっと口角をあげる。 「ぬしも、こちへ来なんし」  手招かれ、渋々、男のもとへ歩く。着ているものに惑わされていたのか。傍までよってみて、伊都は感づいて、男を見上げた。  甘い、林檎に似た匂い。これは── (若旦那の部屋と、おんなじ匂いだ)  纏うものが不潔に見えるだけで、男自身は身ぎれいにしているらしい。しかし、まずはそのぼろぼろの筒袖をどうにかすべきでは?  思考していたら、男は目を細めた。 「あいらしいしとぇ」  小さく言われて、意味がわからずに首をかしげる。若旦那が奥から呼ぶ。声に従って、ふたりでなかへ入る。  暗いと感じたのは、目が慣れるまでだった。  室内に奥行きはない。若旦那の背なら、まっすぐ横にもなれそうになかった。幅は奥行きに頭ひとつ足したくらい。狭苦しい部屋の中程には、男の腰の高さの大きな木机がしつらえてあり、ところ狭しと小箱が並んでいる。  重厚な木机の周囲は人ひとりがまともに歩けるかどうかの通路がかろうじて残されている。否、それすらも怪しい。  むこうの壁には机とも棚とも判別しがたい張り出しがあるし、伊都の足許には書籍が山と積まれ、通行を妨げつつあった。  混沌として見える部屋は枯れ葉色のひかりで満たされている。窓はない。どこから?  かえりみたときには、戸は男の手によって閉じられていた。眼鏡の奥と目があって、にっと笑いかけられる。 「何だぇ?」  廓ことばに怯んで、正面に向きなおる。  そのあいまだった。  青空が見えた。  あおいだそこに、天井はない。青々と高い夏空がのぞき、雲がじわじわと流れていく。  思わず、惚けてしまっていた。  硝子の一枚板を入れてあるのだ。おりてくる日のひかりは、部屋を舞うほこりをきらりきらりと瞬かせ、なかの空気をぬくめていた。
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